「白バラの祈り」 監督 マルク・ローテムント

白バラの祈り -ゾフィー・ショル、最期の日々- [DVD]

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白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々


ここには何度も書いているけど、事実を元にした映画は好きじゃない。それでもある程度歴史になってしまった出来事であれば、頭では実際にあったことだと理解しながら実感を伴わず、半フィクションとして受け入れてしまえる場合も多い。
この映画はどうだったか。ヨーロッパの人と俺とでは、ナチスドイツの身近さや現実味の度合いが違うだろう。そういうギャップがあるとまた感じ方が違うのかもしれないが、礼儀正しすぎる人と一緒にしばらく時間をつぶさなければならい状況に陥ったような窮屈さを感じた。


俺が今書いているのは映画についてだ。ゾフィー・ショルという実在した女性の生き方についてどうこう言っているわけじゃない。
こう映画と現実を簡単に切り離せてしまうのは、俺にとってこの映画で描かれた出来事の現実味が薄いからだろう。


なるほど、立派な思想に殉教した女の子がいたと。
どんな意図でその子を映画にしたんだろう。
自分の死を覚悟してでも曲げない信念だろうか。時代の雰囲気を描くためだろうか。むしろこの映画の敵役ナチスドイツ、つまりは自分たちの過去の過ちを描くことが目的だろうか。
まあ、そこははっきりとどれかひとつに絞られるわけではないだろうけど、たぶんドイツの過ちを描くこと、そして、我々はこんな事をしてきたと反省する気持ちを忘れないようにすることが本来の目標だったんじゃないかと想像する。
そして、そのために印象的で象徴的な人物がゾフィー・ショルであり、その姿を描いたといった感じなのではないかと思う。


少なくても俺に対してはその試みは失敗した。
主人公達の行動は正論によるものであっても子供じみており、逆に尋問官の指摘は部分的には的を射ている。もちろん、だからといってゾフィー・ショルに最悪の最期を迎えさせてしまったことが正当化されるわけではないけど、映画はその稚拙な行動を史実に忠実に描く事に注力し過ぎたんじゃないか(少なくとも監督は史実に忠実に描いたと言っている)。そのため、ドイツの犯した過ちという側面の印象が薄れてしまったんじゃないかと思う。


そもそもなぜ「白バラ」やゾフィー・ショルが有名なんだろう。まあ、俺はこの映画が公開された時に知ったのだけど。
この映画と併映で観た「ヒトラー 〜最期の12日間〜」のラストでもゾフィー・ショルの名前が出てくるし、ゴダールの「アワーミュージック」でも触れられている。何度か映画化もされているらしい。


この映画から想像すると、おそらく思想的にどうこうというわけではなく、「アンネの日記」や白虎隊のように感情に訴えかける時代を象徴する出来事として記憶されてるのだろう。時代を象徴する犠牲者、そして、その時代に立ち向かおうとした姿勢、そういう要素が過去を省みるために求められる物語にマッチしたんじゃないだろうか。
だとしたら、果たして史実に忠実に描くことに必要はあったんだろうか。この映画は学術的な論文とは違う。映画という演出された作りものだ。観客への印象も計算して脚色しても良かったんじゃないか? これは俺がフィクション好きだからそう思うんだろうか。


まあただ、また初めの話に戻るけど、ヨーロッパ人、あるいはナチスドイツの存在を実感を持って想像できる人、さらにはその想像を自分に置き換える想像力がある人が観たら、この映画の印象は違うのかもしれない。