「ゆれる」 監督 西川美和

映画『 ゆれる 』公式サイト
どの映画でも始まってしばらく見ていると、自然と頭にある注意力のチューナーがその映画に雰囲気にセットされる。それは心情であったり、アクションであったり、世界であったり、映像であったりする。
俺はこの映画のオープニングで、あいまいな足りない手がかりから何かを想像しなければいけない映画にチューナーを合わせてしまったのかもしれない。力強さがあることは間違いない。ただ、俺はこの映画のきっちりし過ぎた無駄のなさにあまり入り込めなかった。
これは俺の勝手な想像だけど、この映画は監督がこの映画を撮る前に思い描いていた映画をそのまま作る事に成功したのではないだろうか。しかし、俺が興奮するある種の映画というのは、監督も予想していなかったものになってしまった映画なんじゃないかという気がする。もちろんそれはすべての映画に当てはまるわけではないんだけど、たまたまこの映画を見始めて俺が期待した映画は、その種の映画だったのだろう。


さっき力強さがあると書いた。が、その力強さは演出の計算により作られている。それは当たり前といえば当たり前なのかもしれない。しかし、覚えていないのだけどもし他の映画について力強さがあると俺が書いていたとしたら、それは映画の計算や理屈を突き破る偶発的な、突発的な力強さの事を指していると思う。
この映画にはそういう破滅的な力強さをあまり感じなかった。オダギリジョーの佇まいが画面を切り裂くかのように見える瞬間もあるのだけど、この映画の理知に絡め取られてしまった感がある。
たぶん、俺が求めている力強さというのは、きっちりと精巧に積み木を重ねていく方向ではなく、その労力を惜しげもなく無駄にする破壊する方向の力なのだ。


無駄がなくてだめというのもおかしな話かもしれないけど、うーん、表現の仕方が良くないのか。
無駄がない。いや、真逆か? 無駄が多いのかもしれない。各映像が意味を持ちすぎていて、説明しすぎている気がする。無意味なシーンがないという意味では無駄がないし、説明しすぎという意味で無駄が多いとも言える。
例えば、オダギリジョー扮する主人公が幼なじみの女と寝て家に帰ってくる。兄と会話する。不自然すぎるほど不自然な態度で遅くなった理由を説明する。このシーンはこの後何度か回想される(いや、俺が頭の中で回想しただけだったか?)。少なくとも、兄がこの時点で2人の関係に気付いたのではないかという事は何度か示唆される。しかしそんなに何度もくどく説明する必要はあったのか? 最後にはそれは確定的になるが、主人公が確信するのはいいとして、それを観客にまで明かしてしまう必要はあったのか? 観客に対してはもっとあいまいなままでも良かったんじゃないかという気がする。


たぶん、この人の撮ろうとしているテーマははっきりと見えているのだろう。話自体は破壊力を感じる。そうなると、俺としてはもっと勢いや直感を尊重した、己の持つテーマだけを頼りに闇雲を走り出したようなものを見てみたくなる。暗闇にある無意識を明るみに引き出すのではなく、暗闇に残したままスクリーンに映し出すようなものを見てみたくなる。