「ポセイドン」 監督 ウォルフガング・ペーターゼン

「ポセイドン」公式ページ


特別観たかった映画というわけでもなかったのだけど、めずらしく公開初日に観る。
登場人物達の紹介もそこそこにいきなり大津波にひっくり返されるポセイドン号。余計なドラマをそぎ落として、生き延びようとするもがく姿にフォーカスしようとしているのかと期待が高まる。「タイタニック」はとても好きな映画だけど、恋愛劇が邪魔だと思っている俺にとって、そこまでは良かった。けど、その後がちょっと俺の期待した方向とは違っていた。
い、息苦しい……。 映画のねらいはそこにあるんだろうから、たぶん成功しているんだろうけど、俺は苦手だ。息苦しくて頭が痛くなる。この映画は、水と肺の抗争の話だった。


一般的な感じ方ではないかもしれないけど、「タイタニック」はタイタニック号という巨大な空間を小さい人がごろごろと転がっていく姿が印象的で、見終わって憂鬱になるぐらい正直怖かった。タイタニック号を視界に納めるほど巨視的な視点から見れば、人間は人間の息づかいを失う。そういう視点から見ると人の命など大したものではないように見えてきて、人は簡単に、普通に、死ぬんだ、と言う事を実感させられてしまった。
うーん、これじゃ俺が言いたい事は伝わらないか?
巨視的というのは別に抽象的な意味ではなくて、単純に、物理的に人間より巨大な視点という意味だ。人の死が特別に見えるのはそれがほぼ自分と同じ大きさを持っているからだ。
例えば、もし俺がタイタニック号と同じぐらいの身長だったとしたら、自分の産毛ほどの人間(そこまでは小さくないか)を間違って踏みつぶしてしまっても、断末魔の叫び声も聞こえず飛び出した内蔵も見えず、あまり心が痛まないだろうという事だ。産毛ほどの生物に自分を投影することはないだろうし、気遣う事もないだろう。
あるいは、別の例え話をすると、猫や犬などの動物が死ぬ姿を見てかわいそうと思う事はある。だけど、仮に蟻ぐらいの大きさの哺乳類がいたとして、それが死ぬ姿を見て、猫や犬に対して抱くような感情を持つだろうか? たぶん持たないんじゃないかという気がする。猫や犬を殺すのと虫を殺すのとではまったく抵抗感が違う。それは外見も大きく影響しているだろうけど、それだけじゃなくて大きさもかなり影響してるんじゃないかという気がする。
俺は「タイタニック」で、そういう視点、ある意味神の視点からの、自分の命の軽さを見た。


タイタニック」の話が長くなってしまった。
「ポセイドン」は「タイタニック」と同様に神様の名前を付けられている。映画の冒頭では、ポセイドン号の巨大さを繰り返し印象づける。それで、変に期待してしまったんだけど、「タイタニック」のような人間を人間として見ない視点は残念ながらないみたいだ。あくまでも人間等身大の映画だ。この映画の中では、巨大さは単に困難な道程の長さを示しているだけみたいだ。
元になった「ポセイドン・アドベンチャー」は、タイタニック号の沈没を元にして作られているから神様の名前を付けたと聞いた事があるようなないような……。もしそうだとしたら神様の名前が付けられているのには元々意味がないのかもしれない。でも、勘違いかも。


ポセイドン・アドベンチャー」は昔々テレビで見たけどほとんど覚えていない。けど、アマゾンの解説によると、神の意義と人間の尊厳を問いかけていくという趣向が織り交ぜられているらしい。そういう要素は「ポセイドン」ではすっかり削られている。ひたすら逞しい男達を賛美しているように見えた。


そう、そういえばここまでただ守られるだけの女性が描かれるのは、最近の映画では珍しいような気がする。


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