「ニュー・ワールド」 - 意識を逆撫でする時の流れ

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監督 テレンス・マリック


どうにも苦手な監督が何人かいるが、テレンス・マリックという監督もそういうひとりだ。とりあえず有名な監督だし、たぶん映画館もすいてそうだし、とりあえず見ておくかぐらいの気持ちで見に行った。ところが、その期待のなさが功を奏したのか、CMの時に「音がでかすぎじゃないか?」と感じた音響のせいなのか、粘りつく空気と訳の分からなさに頭を振り回されて、テレンス・マリックの作品への感受性が開拓されてしまったみたいだ。今だったら「天国の日々」も「シン・レッド・ライン」も楽しめるかもしれない。


時代背景やポカホンタスの話を事前に知っていれば、こんなに振り回される事はなかったのかもしれない。スミスはなぜ牢獄に繋がれていたのか、なぜあんなに信頼されているのか、なぜひとりで捕まってしまったのか、なぜポカホンタスはスミスを助けたのか、誰と誰が交渉してポカホンタスは捕虜になったのか等々、ストーリーを咀嚼する間もないまま話は進んでいく。それが返って俺には面白かった。
そして、自然な意識を逆撫でするような時間の流れと、遮られる視界と、3人の心の声が、さらに追い打ちをかける。このシーンはフラッシュバックなのか?このシーンと一瞬前のシーンは時間的に順序が逆になってなかったか?さっきのシーンの最後の一瞬がなぜ切られてしまっているんだ?これは誰の意識なんだ?これは誰の視線なんだ?なぜ視界が遮られているんだ?なぜこんなに遠景が歪んでいるんだ?そしてバチッと瞬きするかのように真っ暗になり、次のシーンへ。


不可解なのは描き方だけじゃない。この映画で見せようとしたものはなんだ?
この見せ方自体?
あるいは、考えられるものとしては愛? なら、後半、特にイギリスに渡ってからのシーンはなんだ?愛より家庭を選んだ。そういう形の愛?
あるいは異文化衝突? 異文化発見? それにしてはスミスは部族の生活にすんなりとけ込んでしまったし、ジョンも新世界での生活に馴染んでいるように見える。ポカホンタスもイギリスに違和感を感じているぐらいで、どちらかというと馴染んだように見える。背景として異文化の摩擦はあるけど、主人公達に注目するとどうもしっくり来ない。
自然? きれいな森と草と川と光と陰が映し出され、人は自然に喩えられ、何度も何度も太陽を仰ぎ見る。劇場は鳥や虫や動物の声で満たされる。ここに重点が置かれているのは確かだ。けど、「自然って素晴らしい!」がメインテーマでもない。自然の雄大さと同時に狭量さも描き出される。少し外れた事をすれば無慈悲に見捨てられ、地獄と化す。


スミスは部族の世界を楽園だとか夢の世界だといっている。かなり美化されている。同様にポカホンタスも、ポカホンタスと結婚するジョンもかなり美化されている。現実離れしていると言ってもいいぐらいだ。もしかしたら、逆にその美化しすぎているところに何か意味があるのか?
ポカホンタスは楽園の人間で、それが追放された。失楽園? そういう寓話的な意味を持たせているのか?


前半のスミスが王に会いに行くところや、後半インディアンのひとりがイギリスに行く船で「やつらがよく話している神にもあって来るつもりだ」という言葉からは「地獄の黙示録」を連想してしまう。
かつてジョゼフ・コンラッドコンゴを舞台に、コッポラがベトナムを舞台に描いたドラマを、マリックがアメリカを舞台に描いた、となると面白いんだけど、そんなに共通性はないみたいだ。


最近、いろいろな映画でhomeという単語が出てきているような気がして、とてもその単語に敏感になっている。この映画でも最後に出てくるけど、これまで最近の他の映画に結びつけてしまうのは強引か。