「タッチ・ザ・サウンド」 - 音の存在、存在の音

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映画や本の面白さの一つには、ものの見方や感じ方が変わってしまうということがある。終始音に焦点を当て続けるこの映画を見終わり映画館を出た時、それが実感できる。この映画を観た後しばらくは、これまで雑音として頭のフィルタで除去されていた雑踏の音に敏感になっている事に気付く。当然ながら街には音が溢れている。


前に音は物理現象だというような事を書いた事があったけど、それはある意味合ってて、ある意味間違ってたかもしれない。空気の振動はあくまで空気の振動に過ぎなくて、それを耳で聞いた時に脳が「音」として認識する。
この映画に出てくる人達は、脳内の「音」だけではなくて、空気や楽器の振動を含めて「音」と認識している。脳内の「音」を聴くための器官は耳だけど、振動を感じる器官は耳だけじゃない。考えてみれば、楽器を一切やらない俺でも、耳以外で感じる振動を、意識せずに音と不可分のものとして感じている場面がたまにある。ライブハウスで床からズンズン響いてくる低音などそうだろう。俺は車に乗らないので分からないけど、高級車の静かなエンジン音と微かな振動に心地良い満足感を感じる人もいるだろう。音や音楽というのは、聴覚だけの物ではなく、もっと全感覚的なものだ。この映画はそれを伝えようとしている。


音の反対語は静寂じゃなく、あえて言うなら死のようなものだという。そのイメージは分かるような気がする。たまたま「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」について書いた事と近い感じがする。音というのはエネルギーのほとばしりであり、存在の証だ。さらに、この人は周期性や変化に「音」を感じる事が出来るのだろう。例え耳で聞く音がなくても、枯山水の視覚的な周期性に「音」を感じる事が出来る。「音」を感じた時、同時に存在が生まれる。


ふと思ったけど、音楽が音学じゃないのは当て字なのかなとおもったけど、洋楽、邦楽、楽典、雅楽とか音学関連の言葉には楽の字が入っているところを見ると、楽の字にもともと音楽的な意味があるのかな。
調べてみると、もともとは楽器の事を指していたそうだ。
http://www.kitashirakawa.jp/~taro/eigo35.html