「crash」と「clash」と「クラッシュ」のニュアンス

アカデミー賞を獲った映画「クラッシュ」の原題は「crash」だ。関係ないけど、題名から連想した本「文明の衝突」の原題は「the clash of civilizations」である。"crash"と"clash"。どちらも「衝突」というような意味を持つ。この2つの「クラッシュ」にはどんな違いがあるんだろう。

crash http://www2.alc.co.jp/ejr/index.php?word_in=crash&word_in2=%82%A0%82%A2%82%A4%82%A6%82%A8&word_in3=PVawEWi72JXCKoa0Je

clash http://www2.alc.co.jp/ejr/index.php?word_in=clash&word_in2=%82%A9%82%AB%82%AD%82%AF%82%B1&word_in3=PVawEWi72JXCKoa0Je

Clash, Crush, Crash | Ask Naotake!


なるほどねえ。"crash"は壊れるイメージまで含んでいるんだ。だから、もし「the crash of civilizations」だったら、文明が衝突して、文明が滅びてしまうようなイメージになってしまうのかもしれない。「the clash of civilizations」は、あくまで文明が対立している状態をイメージしているのだろう。


この"crash"という単語の「壊れる」イメージは、映画「クラッシュ」においては重要だと思う。映画の中には貧富の差による対立や人種の違いによる対立が描かれているので、日本語で「衝突」(≒「対立」≒"clash")のイメージで題名を受け取っても、あまり違和感を感じない。だけど、たぶんこの題名のイメージ、さらに言えばこの映画が描こうとした事はそういう事じゃない。この"crash"に託されているイメージは、「環境が違う人間の対立」じゃなくて「環境の違いの破壊」だ。


前回「クラッシュ」について書いた事とあまり大きく変わるわけではないけど、この2つの単語のイメージの違いに気付くと、ドン・チードルが言う「みんな、衝突して何かを実感したいんだ」というセリフの意味はもっと明確になる。まず「この街では、みんな鉄やガラスの中にいて触れあう事は皆無だ」というようなセリフがあり、その後、「みんな、衝突して何かを実感したいんだ」と続く。英語のニュアンスなので想像でしかないけど、たぶんもっとイメージに忠実に訳すなら「みんな、衝突して自分や他人を覆っている鉄やガラスを吹っ飛ばして、その中の素の人間を実感したいんだ」となるんじゃないだろうか。そしてその後のセリフ「人間だよ、人間」と続く。ここでいう鉄やガラスから、人種や貧富の差への連想はさほど遠くない。誤解してもらうと困るが(と自説が合ってるかどうか分からない俺が言うのもなんだけど)、「そういうものを壊して社会からなくしたい」という希望じゃない。あくまで、個人と個人との関係の話だ。不干渉を基礎にした歪な共存方法に息苦しさを感じている人達が願いが、"crash"すること、つまり人と人として触れあう事なのだ。当然それは安易に解決する事じゃない。だからこそ願うのだ。前回書いたように、サンディ・ニュートンマット・ディロンを許す事はないだろう。自分の命を救った人間であっても。
ここが、ポール・ハギスの粘りどころだ。一つ一つの問題がうわべ上解決しても、その解決は一時凌ぎにしかならない。この映画は、噴出する問題を解決しない事や、個々人の意図が噛み合わない様を描く事で、その根本の問題の存在と"crash"することを願わずにはいられない現在の疲労をを浮かび上がらせる。


日本語でも「壊れた」という意味で「クラッシュした」と言う事もあるし、映画の中でも衝突して壊れる車が何度も出てくるので、自然と壊れるイメージと題名は結びつけられる。見ているうちにそのような事がテーマになっている事にもうすうす気付いてくる。さっき書いたセリフも、わざわざ訳し直さなくてもニュアンスは伝わってくる。けど、なんとなくそう感じても、日本語の「衝突」という言葉に捕らわれ過ぎてしまって明確に意識する事ができなかったような気がする。