「クラッシュ」 監督 ポール・ハギス

「クラッシュ」HP
だんだんと人種問題を扱っている映画らしいと見えてくる。「クラッシュ」という題名は、ハンチントンの「文明の衝突」を観客が連想する事も意識したものなのかもしれない。そう考えて少し不安になる。そういうテーマは頭では理解したつもりになっても、結局実感として理解できない場合が多い。
しかし、違った。人種問題を取り扱ってはいるが、この映画はそれを契機にして、描くのはあくまでも人の心だ。人種、階級、職業、そういった違いや背負っているものの違いはあるが、その違いを突き抜けたところにある、人間という共通項が持つ心に迫っている。「理解できた」と言い切るつもりはないけど、アメリカの現実を知らない俺にも実感できるほど、心の奥底に浸入する。


この映画は、自尊心を踏みにじる行為はいけないと、声高に叫ぶ事はしない。寛容であれと啓蒙しようとしているわけでもない。人の心の歪さをただ描く。そして、一人一人の実感を描き出しながらも、少し高台から望むLAの夜の街明かりのように、様々な人を視野に入れ彼らの心を相対化してみせる。
全ての人が聖人君子で同じ思想を持つ世界を目指しても、おそらくそんな世界が実現する事はありえない。違う思想を共存させるしかないだろう。そのためには寛容さが大事だ。そんな事も感じ始める。


ところが、この映画はまるで、そんな俺の安易な結論を退けているかのように見える。そこが俺にとって面白いところだ。


ドン・チードルが言う。「みんな、衝突して何かを実感したいんだ」このセリフは、この映画の中で重要な、映画を象徴するようなセリフとして冒頭登場する。
よく考えてみれば、共存や寛容という考え方とこのセリフとは、すぐには馴染まない。


ロサンゼルスの現状のことは知らないが、おそらく、映画で見る限り、すでに共存はしているのだ。ただし、お互いに干渉し合わないように。
他人を理解していなくても、他人を拒絶しながらでも、共存することは可能だ。おそらく、この映画が取り上げているのはその点なのだ。理解し合わずに共存する現状。共存や寛容という建前の下では、不信が渦巻いている。この映画は、押さえ込まれていた不信が衝突によって噴出する様を描きだしている。そして、観客の心に生じるもやもやを解消せず置き去りにする。表に現れた衝突だけ解消してしまったら、その根本の問題に迫れない。表に現れていない根本こそが、見つめるべき問題なのだ。


マット・ディロン演じる警官は、ある夫婦に性的な侮辱を加える。しばらくして、今度は事故にあったその女を命がけで助ける。しかし、それでも助けられたその女は、「ほんとはいい人だったんだ」と、自分と夫の自尊心を踏みにじった警官の過去の行為を許す事はないだろう。
ここでお互いに許し合ったとしても、問題は解決しない。問題は、日々この警官の心の裏に積み重ねられていく不満、女の心に植え付けられていく恐怖だ。それは、文字通り命を張っても解消されるものではない。
急ぎ足に寛容さに解決を求めても、それでは本当の解決にはならない。そんな寛容さは、無関心と拒絶の上に成り立ってしまう。


監督ポール・ハギスは、「ミリオンダラー・ベイビー」の脚本を書いた人だそうだ。あれは面白い映画ではあったけど、なんかあまり褒める気がしない映画だった。あの終盤の展開は、気持ちが冷めていく事はなかったけど、「そこまでやるのか」という感じで、なんかずるい感じがした。それから前半と終盤で話が違ってきているみたいに感じて、ちぐはぐさも感じた。ただまあ、評論家たちにこれだけ褒められているんだし、俺が気がつかなかっただけで、もしかしたらもう一回見ると、前半部分にも終盤のテーマは内包されていたのかもしれない。


「クラッシュ」でも、展開にすこし作為的な臭いはする。意識的な嘘は好きだけど、この人は嘘くささに無自覚な気がする。ただ、この映画においては、それは些細な問題だった。

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