「ノーカントリー」 監督 ジョエル・コーエン/イーサン・コーエン

No Country for Old Men. Cormac McCarthy
・たまらなくかっこいい!しびれた!
・「バートン・フィンク」の訳の分からないエネルギーにやられて以来、コーエン兄弟の映画には無意識のうちにそういう味を求めてしまっていて、以降の映画にはずっと物足りなさを感じ続けていた。きれい過ぎて不安定さのなさが物足りないと言うか。
・そういう意味では今回も設計図からはみ出す感じというのはないのだけど、何が違うんだろうな。
・意味深な感じがずっと持続するのが良かったのか。話的には分からない部分が多い映画だ。そういう余白が余白のまま放り出されているのが良かったのかもしれない。
・主人公よりも主人公を追っかける殺し屋のキャラクターがこの映画の味を決める重要な役割を果たしていたように思える。俺にとってはそこが今までの映画と違ったところだったのかもしれない。
・ロボットのように単純に良心を欠いていたり出来事の認識ができないことによる精神異常的な非道さではなく、むしろ逆に透徹した認識の果ての非道さ。
・人は単に本能に突き動かされて子供を作るだけであり、人は偶然生まれるだけであり、存在することには運命論的もしくは決定論的な意味はない。人類はたまたま進化の結果発生しただけであり、人類の登場には意味はない。生物はなんらかの化学反応の結果たまたま生まれただけであり生物の発生には意味はない。地球も宇宙も物理的偶然から生まれたものであり、存在に意味はない。そして、人も人類も生物も地球もいつか消えてなくなる。自分の存在も存在した記憶も記録もいつか完全に消滅する。
・多くの人は存在の消滅から目をそらすか、神様だとかあの世だとか消えてなくなってしまった後の存在を保証する幻想に寄りかかる。
・だけどあの殺し屋は、意味や主観を剥奪し続けた、いわば科学的な認識の果てにたどり着いてしまった人物のように見える。コイントスはそんな世界の在りようの象徴だ。
・無意味と法則と偶然の最果ての地で、空気を武器とし幽霊と呼ばれるにふさわしい見事な人間離れっぷりだ
・とはいえ、確実に消えてなくなる自分の意思と規律を信じ存在し続ける求道者的人間味も一方で感じてしまった。
・で、そんな殺し屋が体現する思想に対抗するのは、主人公ではなく保安官の役割のようだ。けど、いまいちどう対抗しているのかがよく分からなかったんだよな。まあ、そもそも解釈がずれてるのかもしれないけど。
・「no country for old men」という原題といい、ラストシーンといい、何か意味を持たせてるんだろうけどなあ。
・舞台が実は30年くらい前だったことを考えると、なんとなく「今」を問題にしているようにも見える。30年前に存在した「今」、2008年「ノーカントリー」を観た「今」、未来に存在するはずの「今」。「今」を特別視することは殺し屋の巨視的で抽象的な思想に対抗する。人は「今」と「主観」の中でしか存在できない。