「デジャヴ」 監督 トニー・スコット

デジャヴ (竹書房文庫)
「ドミノ」ほどの興奮はなかった。評論家の中にはトニー・スコットを褒める人もいるのでもしかしたらと思っていたんだけど、やっぱりトニー・スコットトニー・スコットだったなあという感じだ。「ドミノ」は突然変異的な怪物だったようだ。
なんかSFみたいな設定だなあと思っていたらSFだった。俺の趣味としては、最初の説明のまま超えられない一線があり続けた方が苦味があって面白かったんじゃないかなという気がするものの、きれいにまとめられてしまって、まあこれはこれでいいかという気にもさせられる。


トニー・スコットの監督作に限らずヘリコプターが出てくるシーンの浮遊感が好きなのだけど、この映画はそこが特にその感覚は強かった。現実味のないストーリーや今の世界と4日前の世界が交じり合う感じによって、さらに接地感が薄れていく。この感覚をもう一歩推し進めたものが観たかったなあ。そういう点で、4日前の車を追いかけるシーンみたいのがもっと見たかった。


観光名所とか博物館とかに行って、昔ここで誰々が何をしたとか誰々がこれを使ってたとかを想像することで感動できる人がいる。俺はそういう想像力が欠如しているようなのだけど、そういう想像力を持った人ならこの映画はもっと楽しめるのかもしれない。


あるいは、画面の向こう側を想う姿は別のものにも例えられるのかもしれない。大写しになった未来の被害者の映像の前に佇み、焦がれるように女を見るデンゼル・ワシントンの姿は、大スターと一般人を描いた映画で何度も見たような気がする。


たぶん、この映画を観ていろいろ理屈をこねるのは野暮というものなのだろうけど、気になった部分がある。
あの過去の映像を写す視点はどこにあったのかという事だ。初めの説明では4つだか5つだかの衛星の映像の合成で、赤外線がなんたらこうたらで再構成した映像だから室内も見えるしアングルが自由になるという話だった。その後、あれは単なる再生映像ではなくリアルタイムで過去を見ているのだということが明かされる。
ここまではいいとして(もちろん理屈としては納得できないけど)、あの映像が再合成したものだろうが、リアルタイムの映像だろうが、カメラはあの部屋の中には存在しないのだから、やはり最初の説明どおり映像情報は衛星が集めていると考えるのが論理的だと思う。でも、果たしてこの映画の作り手たちはそう考えていたのか。
ペンライトの光が画面の向こう側に届いてしまう。向こう側の女はこちら側の視線を感じてしまう。まるで向こう側の世界に、存在しない視点が存在していて、視線で繋がっているかのようだ。
なんだかんだ科学的な用語で飾り立てているけど、結局そんなのお構いなしに、視線の魔力が存在している。