「2番目のキス」 監督 ボビー・ファレリー/ ピーター・ファレリー

http://www.theatres.co.jp/nibanmenokiss/

ブコメディー見るの久しぶりだー。意外とこういうのにやられちゃうんだよな。俺は映画を観て泣く事はない。泣きそうになっても堪える。その堪え度が今年一番だった。あんまり観ないけどこういう迷いのないハッピーエンドには弱い。ファレリー兄弟の毒に期待している人には物足りないかもしれないけど、これはこれで十分楽しい。そうは言ってもドリュー・バリモアの額にできた、ばかでかいこぶには一瞬「えっ」とたじろぐ。ああいう映像が、らしいと言えばらしい。


この映画の主人公達「野球ファン」の姿を見て少し考えるところがあった。ここから少し映画と離れていく。


ここ数年サッカーを観るようになって、スポーツを観る視点には2種類あるという事が分かった。スポーツの技術や美しさを観る視点と特定の個人やチームを応援する視点だ。これらは明確に2つに分けられるわけではないけど、大雑把にワールドカップで例えるなら、日本戦(や応援するチームの試合)しか見ない人と、応援しているわけではないチーム同士の試合も夜更かしして見る人と言えばいいか。
俺の中では、前者は素人的であり、後者は評論家的という印象を持っていて、なんとなく後者の方がレベルが高いように感じる。何のレベルだと聞かれると答えに困ってしまうのだけど。そして、俺自身もどちらかというと後者的な見方を目指そうとしてしまう傾向はあるような気がする。
ただしかし、前者的なファンが極まって後者になったとか、実際に選手をやっていたのなら別だけど、そういう経緯なしで後者の見方をするのは何か歪さを感じる。この歪さはなんだろう。


ある程度興味を持ったら自分でやってみたいと思うのが自然な流れだと思う。それがそういう方向に進まない事に不自然さを感じるのかな。


ああ、それもあるかもしれないけど、本来の目的からずれているのが気になるのかもしれない。
スポーツは基本的に争いごとだ。勝つ事が目的だ。技術が高ければ勝つ可能性が高まる。本来は勝利に貢献する技術が礼賛されるはずだ。いくら技術が高くても勝利に貢献しない技術は無意味だ。試合は技術の品評会ではない。
少し極端に言うなら、試合結果への興味ではなく技術を見るためだけに試合を見るという、勝利への手段に過ぎないはずの技術にだけ焦点を当てる見方、手段を目的化したかのような見方に歪さを感じるのかもしれない。
一人の観客の中に「ファン」的な部分と「評論家」的の両方がいると思うが、たぶんスポーツを支えているのは本来の目的である勝ち負けに一喜一憂する「ファン」的な部分だ。勝ち負けを気にする人がいなくなってしまったら、そのスポーツはそのスポーツとして崩壊する。
モーグルはターン点、エア点、タイム点があるそうだけど、サッカーも得点と技術点の2つの合計で勝ち負けを決めるようにしたらもっと日本人好みになるのかも。そんなことないか。


まあ、それはいいとして、ここまで書いて思い出したけど、以前映画に対して同じような事を書いた事がある(はずだ)。どの映画について書いた時だったかは忘れてしまった。
おそらく映画制作者達は映画技術を見せるために映画を作っているのではない。あくまで映画総体で観客に何かを感じさせようとしている。映画は、分析し技術を愛でる対象ではないと、もう一度自分に言い聞かせておこう。俺にとって重要なのは映画総体が表現しようとしている物や、自分が何をどう感じたかだ。分析対象は、映画総体が表現しようとしているものと自分の気持ちであって、技術ではない。