「ラストタンゴ・イン・パリ」 監督 ベルナルド・ベルトルッチ

ラストタンゴ・イン・パリ〈オリジナル無修正版〉 [DVD]

ラストタンゴ・イン・パリ〈オリジナル無修正版〉 [DVD]

マーロン・ブランド扮するポールが言う。「タンゴは儀式だ。ダンサーの脚を見ろ」


社交ダンスというと派手な身振りを連想するけど、少なくてもタンゴに関してはどうも違うみたいだ。
アルゼンチンタンゴ・ダンス協会
ここを見て始めて知ったのだけど、タンゴは重心と脚が中心のダンスのようだ。上半身はほとんど固定されている。
この映画の中で、踊る人達の表情は、能面の様に固まった笑顔だったり無表情だったりする。しかしその下で、下半身は激しいステップを踏んでいる。男と女の脚が目まぐるしく交差し絡み合う。
おそらく、男女の脚のやりとりは、男女の欲望の象徴なのだろう。取り澄まし昇華されたダンスの内側にある生の衝動。いや、性の衝動。
それを描く事がこの映画の目的なのか? あせらずにもう少し考えよう。


ジャンヌの恋人は、2人の私生活をドキュメンタリー的に映画に撮る。しかし、当然完全な素が撮られるわけじゃない。見られている事を意識した私生活を送る。
対照的に、ポールとの生活は互いに名前も職業も明かさない。社会的な仮面を脱ぎ捨てた姿で互いに対峙する。
ジャンヌはそこで開放感を味わったのかもしれない。じゃあ、ポールはそこに何を求めていたのだろう。


ポールの妻は自殺した。妻は浮気をしていた。
ポールは妻を理解しようとしたのか? それでジャンヌとの関係の中で自分の中の肉欲のみを引きずり出そうとしたのか?表の顔からは分からないものを理解しようとしたのか? そのために名前が邪魔だった?


ポールはアメリカ人であり、異邦人であり、世界中を旅してきた男だ。ポールの妻の死体に向かって言った独り言を信じれば、妻はポールを客として捉えていた。身内じゃなくあくまでも他人。その違いは? 互いの理解度? 互いにどれだけ必要としているか?


素性を消した肉欲生活から素性を明かした関係に変えようとした、男の心変わりのきっかけは何か。妻の死体と話をした時、あるいは手軽に性欲を満たそうとした男を殴った時、何が変わったのだろう。
ここまでの解釈の方向性が合っていたとすると、精神的な愛の存在を認めたという事か? いや、愛というよりも、関係だろうか。互いの事を理解し合う関係。愛は存在していた。しかし、互いの心中は知らなかった。いや、別のシーンで孤独についての会話がある。孤独の存在を知ったのか? 


もしかして、セックスも儀式だと考えればいいのか。愛と肉欲の分離。タンゴはセックスという儀式をさらに儀式化したものなのか?


ポールが素性を明かし始めてからの2人の心中はまだよく分からないが、あの状況から考えて、ジャンヌは2人の関係がもう終わったと思っている。ポールはまだ続くと考えている。この差はどこから来たものなのか。


ポールは、それまで2人の関係から愛を消し、肉欲のみを引き出そうとしていた。ジャンヌは、ポールとの肉体快楽の関係に愛がないと気付いたのかもしれない。
その結果、2人のラスト・タンゴはなげやりな、一方的な手淫。儀式とも呼べないようなタンゴ。


あるいは、互いを理解せずにセックスだけの関係で愛することができるかどうか孤独を埋められるかどうかを、ポールは実験していたのか。


タンゴは儀式だという。建前の形式とその内側に隠されているもの。そういうものはいくつか出てくる。学校、教会、家族、広告。「ポップな若さ、ポップな結婚」。映画。


意味深な物が多くて、どうにもまとまらないが、単純な二項対立ではなく、三項登場しているような気がする。儀式的社会的な関係、肉体、他人の心の理解。単純に分離できる物ではないだろうが、このどこに愛と呼ばれるものが潜んでいるのか、人の本質的な孤独を何が覆い隠してくれるのかが、この映画のテーマのような気がする。あるいは、社会的関係も肉体関係も儀式だと言っているのかもしれない。