「ふたりのベロニカ」 監督 クシシュトフ・キェシロフスキ

この感触をどう言葉で表現できるだろう。これについて書くのは、音楽について書くのと同じようなもどかしさがある。肌に映って揺れる光と陰の感触をどう表現すればいいんだろう。しかし、ただこうして映像に惑わされているだけなのも悔しい。キェシロフスキが撮ろうとしたモノは純粋な映像そのものだけじゃないはずだ。物語をもった映画だ。映像と物語の両輪によって、観客に何かを伝えようとしているはずだ。この映画の向こうにある、キェシロフスキが表現しようとしたモノはなんだろう。


リアリスティックな感触を持ちながら、細部の積み重ねによって非現実的な雰囲気を作り上げている。デモかなんかの騒動があったり下半身をさらす男が出てきたりする一方で、星や音楽や人形や雨や光など、少女的な幻想を感じさせる物が丹念に収拾されている。
ポーランドとフランスの互いの存在を知らない2人のベロニカは、どこか繋がり合っている。それはただの偶然と言ってしまえばそれで済んでしまうぐらいの、か細い繋がりだ。
映画は、その幻想的なか細い繋がりを肯定的に描く。まるで、主人公の女性の中にある少女的な幻想、あるいはこの映画が描く幻想が幻想ではなく、実はそれこそが真実だと言っているようだ。


いきなり自分の話になるけど、俺はあまり占いは好きじゃない。それは占いを信じていないからじゃなくて、逆に心のどこかで信じているからだ。たまたま見てしまった占いで、「ラッキーナンバーは3」とか言われると、どうしてもそれに影響されてしまう。それは何かで3を選んでしまうという行動かもしれないし、逆にあえて3を選ばないという行動かもしれない。どちらにしても、占いに影響されて3という数字を意識してしまっている。流行っているから行くというのも、流行っているから行かないというのも、どちらも流行りに影響されている事には変わりないのと同じで、そういう自分で判断したと思えなくなるような影響は好きじゃない。でもそんな好き嫌いと関係なく、心のどこかで、占いを信じてしまう。そんなものは当たるわけないと思いながらも、どこか信じてしまっている。


科学を超越した存在をどこか信じている心、求める心というのは、多かれ少なかれ誰にでもあるのだと思う。宗教はもちろんそういうものだろうし、幽霊の話に怖がるのもどこか信じている心があるからだろう。俺が幽霊ものを人より怖がるのは、そういうのを他の人よりもより信じているからかもしれない。
スポーツやギャンブルの「流れ」「ジンクス」というのも、そういう物に分類していいような気がする。科学的な説明が付けやすい分受け入れやすいけど、それに流れる根本には、きっちりとして抗いようのない現実を超越した、何かへの願望があるような気がする。


ふたりのベロニカ」は、そういう心を刺激する。現実を超越した存在を求める気持ちを満たそうとするおとぎ話だ。「白馬の王子」みたいなあからさまなおとぎ話を信じられなくなった人のために、丹念に、緻密に、「何かの存在」を浮かび上がらせようとする。それが存在する事を描こうとしている。
ハッピーエンドのメジャー映画よりも切実なおとぎ話かもしれない。


これを書きながら、こんなことを読んだ事があるなあと思ったらこれだった。
CUT 2001/01 Book Review