「ヒストリー・オブ・バイオレンス」 監督 デヴィッド・クローネンバーグ

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クローネンバーグは苦手な監督だ。あのハリボテ感についていけないことが多くて、今まで見た中では唯一「クラッシュ」だけが面白いと思えた映画だった。だけど、この「ヒストリー・オブ・バイオレンス」には、その俺が苦手と感じる雰囲気がなくて、面白いと感じる2作目のクローネンバーグ映画だった。


history」を辞書で引くと「経歴」「過去の事」などの意味がある。たぶん題名の「ヒストリー」は「歴史」という重たい言葉ではなくて、主人公の過去の事を指しているのだろう。また原題は the ではなく a で始まっているので、直訳するなら「暴力の歴史」ではなく「ある暴力の過去」「ある暴力の経歴」といった感じか。
ただ、この映画を「暴力の歴史」と見る事も可能だ。歴史の中で際限なく繰り返されてきた暴力のエッセンスがここにあると捕らえる事もできる。
さらに「ヒストリー」には「史劇」という意味もある。「史劇」をさらに辞書で引くと「史実に題材を求めた劇」とある。暴力という史実を映画化したという事もできるかもしれない。
http://dic.yahoo.co.jp/bin/dsearch?p=history&stype=0&dtype=1
http://dic.yahoo.co.jp/bin/dsearch?p=%BB%CB%B7%E0&stype=0&dtype=0


ストーリーはとてもシンプルだ。だけどこの表面上シンプルな物語の内側には、一筋縄ではいかない感情の力強い物語がうねっている。「history」という言葉と同じように、いろいろな意味を見る事ができる。


ストーリーだけ見たら悪人を倒してめでたしめでたしとなってもおかしくない。しかし、この映画の主眼は、暴力を振るわざる得なかった苦悩に置かれている。
この映画を見ていて連想したのは少し前に見た「ミュンヘン」だ。前にも書いたけど、「ミュンヘン」は、イスラエルユダヤ人についてのみ描いた映画だったとしたらあれでいいのかもしれないが、もし、もっと抽象的に「復讐」について描こうとしていたのなら、物足りなさを感じる。この映画と比べてしまうとなおさらだ。何が違うんだろう。
ミュンヘン」では、どうしても単純な暴力ではなく、「国」を軸とした暴力について考えてしまう。もし、「ミュンヘン」にアメリカの軍事行動への批判が込められているとすれば、すこし今さらという気がしないでもない。「ヒストリー・オブ・バイオレンス」が違うのは、個人レベルの暴力が描かれている。読み取ろうとすればそこにアメリカの戦争をなぞらえる事もできるだろう。でも少なくとも映画の中では、国という不純物は介在してこない。
もう一つ違うのは、「ヒストリー……」は暴力から身を遠ざけようとした男が、暴力の世界に再び引きずり込まれる話だというところだ。「ミュンヘン」では、最後に主人公は、暴力の世界から引退して話は終わる。しかし、その後、何らかの理由で再び仕事をせざる得ない状況になっていたら「ヒストリー・オブ・バイオレンス」と似た状況になるのかもしれない。
そうだ、それだ。「ミュンヘン」は暴力や復讐の怖さに気付く話で、「ヒストリー……」は、気付いている男が再び暴力の世界に巻き込まれる話だ。


暴力の本質の一面はそこにあるのかもしれない。暴力はいやだといって避けていれば避けられるというものじゃない。いやでも向こうからやってきてしまうのが暴力だ。
息子に暴力はいかんと説教している時に、息子を殴ってしまうシーンがある。これも暴力の本質の一面だ。怒りや暴力の衝動というのは他人事ではなく、自分の中に存在している。
暴力は内からも外からも突然やってくる。殴る暴力もあれば、頭を銃で撃ち抜く暴力もある。衝動による暴力もあれば、何かを守るための暴力もある。「暴力反対!」と頭ごなしに言っていれば解決するというものではない。
この映画のラストシーンは、この数年に見た映画の中では屈指の格好良さだった。あのシーンの苦みにはそういう割り切れなさがこもっている。


さっきも書いたけど、この映画のストーリーはきわめて単純だ。しかし、単純さというのは美点だ。一般論として、たぶん「面白さ」というのはストーリー展開そのものにはない。「24」のようなドラマは見始めると最後まで見てしまうけど、ああいう意外性だけで引っ張られていく感じに、俺は「面白さ」は感じない。続きを見てしまうのは単に先を知りたいだけで、「面白い」から先を見たいわけじゃない。リメイク映画が大抵失敗しているのは、ストーリーという骨格だけ踏襲して、肉付けに失敗しているのだろう。
この映画の登場人物はただのストーリーのための駒に堕していない。一挙手一投足にはその人物の気持ちが込められている。気持ちの変化が現れている。