「村上春樹の隣には三島由紀夫がいつもいる。」 佐藤幹夫 著

説得力がある。
読む前は、もっと著者の印象に基づいたあやふやな話かと思っていた。しかし、これだけ具体例を出し比較されると納得せざる得ない。
たぶん俺が一番読んでいる小説家は村上春樹だ。その小説にこれほどの意味が隠されていたというのは、ちょっとした衝撃だ。三島由紀夫の小説も好きで何冊か読んでいるけど、この本に出てくる「夏子の冒険」や「豊饒の海」は読んでないので、それらと村上春樹の小説との関係に気付かなかったのは当然だけども。それにしても衝撃だ。今までに何度か読んだ村上春樹の小説も、次に読むときは違う小説となっているかもしれない。


村上春樹の小説は大好きだけど、消化不良のまま雰囲気で読んでいるようなところがあった。小説に登場する名詞や台詞に、確かに何か意味がありそうだとは感じても、具体的にそれが何を示しているのかを理解しきれていない感触はずっと持っていた。この日記でも村上春樹の小説は「アフターダーク」と「東京奇譚集」について書いたことがある(これこれ)。一応の解釈はつけて納得はしていたけど、やはりそれじゃ足りなかったんだ。それぞれ意味ありげなものには、やっぱりきちんとした意味があったんだ。村上春樹の小説はやっぱりパズルだったんだ。


もうひとつ面白かったのは、文学史の説明だ。夏目漱石を乗り越えようと志賀直哉が格闘し、志賀直哉を乗り越えようと太宰治が格闘し、太宰治を乗り越えようと三島由紀夫が格闘し、そして今、三島由紀夫を越えようと村上春樹が格闘する。一つの作品の背後には、巨大な歴史がそびえている。そういうことを改めて知らされた。「換骨奪胎」という言葉は知っていても、まさかこんなあからさまに実行されていたとは知らなかった。
映画でもよく「映画的記憶」なんて言葉が聞かれる。具体的にそれがなんだかもよく知らずに、そういうものは毛嫌いしていた。「オマージュ? リスペクト? お前が誰を尊敬してようがそんなの知ったこっちゃねえ!それよりこのシーンがこの映画を面白くするかどうかだけ考えてろ!」と思っていた。
単に真似て取り入れただけのシーンや、単に連想させるだけのシーンに対しては、今でも同じように思っている。だけど、もしそれが先人に対する果し状であるなら、少し見方は変わってくる。文学なり映画なりの巨大な歴史に胸を借り、現在という武器で乗り越えようとする苦しみがそこに刻み込まれているなら、そこに注意を向けるのも面白いかもしれない。


残念なのは、この本では冒頭で「海辺のカフカ」や「アフターダーク」に触れているけど、本編は「ダンス・ダンス・ダンス」までの説明で終わっている。ぜひ、「ダンス・ダンス・ダンス」以降の本についても同じような感じで謎解きを続けてもらいたい。「アフターダーク」では新しい戦いを始めていると著者は書いている。その新しい戦いとはなんなのか。こんな新書版じゃなく、もっと分量のある解説書を書いて欲しい。
それと、パズルの答えはある程度分かったけど、その説明の方に注意が向きすぎて、結局その本の主題がなんだったのかというところが、いまいち見えてこなかった。でも、もう一回読めば分かるのかな?