「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」 監督 青山真治

エリ・エリ・レマ・サバクタニHP
今、俺にとって一番感想を書きづらいのが青山真治だ。ゴダールぐらい大御所の映画になれば「そんな高尚な物は分かりません」と開き直る事もできるんだけど、この人の映画をつまらないと言ったら「見る目のない奴」と思われるんじゃないかという怖さがある。かと言って、逆に面白いというのも、なんか世間に流されているような気がしてくる。


また、それ以前に本当に自分がどう感じたかという事にすら、自信があまり持てない。強烈に面白かったり、強烈につまらなかったりすれば問題ない。しかし、そこそこ面白かった時に、もしかしたら青山真治というブランド名にだまされているのかもしれないという気もしてくるし、逆に、そういう先入観なしに見ていたらもっと楽しめていたのかもしれないという気もしてくる。
普段、これを書く前にいろんなデータを調べたりはするけど、他人の影響を受けたくないので、他の人の感想や批評はなるべくは読まないようにしている。けど、今回はつい確認したくなってしまう。まあ、とにかくできるだけ率直に書こう。


まず最初の感想。宮崎あおいがかわいい。今さらながら「NANA」を見逃したのはもったいなかった。この娘の顔は、心が屈折せずに表情に出そうな、素直な顔をしている。女の人は、十代も後半になってくるとだんだん仮面の気配が見えてくる。それは化粧がどうこうという話じゃない。心がそのまま顔に出ず、表向きの顔が作られていくような気がする。
一番その感じを端的に感じる例としては、実は大人の顔ではなくて、CMなんかでたまに見かける子供の笑顔だ。むりやり元気にはしゃいでいるのがありありと伝わってくる不気味な笑顔。大人の女の人は、そこまで見え見えではないけど、というか作り笑いなのか本当の笑顔なのか大抵は区別つかないけど、常にそういう仮面の気配、あるいはよそ行きの顔が現れているような気がする(これは別に俺に向けられた顔がいつもそういうのだということじゃなくて、一般論としてテレビや映画で見る顔の話だよ)。
しかし、宮崎あおいの顔には、そういう表向きの仮面の気配をあまり感じない。これはまあ、俺がそういう印象を持ったというだけで、実際のところは女優だし、俺がまんまと騙されてるだけかもしれない。


本題の映画の方だけど、まず俺なりの解釈を考えよう。
未来、音楽、病気、希望。こういった単語からは、「コインロッカー・ベイビーズ」や「五分後の世界」といった村上龍の小説を連想する。しかし、それら小説ほどの物語は、この映画にはない。
主人公が作る音楽が、自殺衝動を引き起こすレミング病を押さえ込む働きをするという。その音楽というのは、いろいろな自然の音と激しいギターの音をリミックスした物だ。登場人物のセリフを信じると、レミング病の病原体は音をえさにしているという。人間が食べた後眠くなるように、病原菌は彼らの音により活動を一時的に停止するらしい。
また、別の登場人物のセリフによると、病原体はその人間の絶望に寄生するという。キルケゴールは絶望を「死に至る病」と言ったが、それを連想させようとしているのか。ただ、キルケゴールの言う絶望とは、死という希望さえない精神の死を言っているらしいので、少し違うか。とにかくそこから話を進めるなら、主人公たちの音楽は希望ということだろうか。
後半、浅野忠信演じる主人公が宮崎あおい演じるウィルスに冒された女の子に音楽を聴かせる。音楽といっても、彼らの作る音楽は、人間が心地よいと感じる音楽理論からはずれた、激しいノイズを伴った音楽だ。音楽理論による音の構成を外れた音楽。不協和音。叫び。楽器以外のものが作り出す音。これらがなぜ希望になるのか。その時、画面はビデオか何か分からないが、粒子の荒い映像になる。


そもそも希望とはなにか?何が生きる希望たり得るのか。希望がないと人は死ぬのか。たぶん死なないと思う。惰性で生きる。自殺には意志が必要だ。死にたいという希望だ。
自殺願望は、たぶん希望のあるなしとはあまり関係ない。ウィルスに冒された女の子が言うように、いずれ人間は必ず死ぬ。どんな希望があろうが、「死んだら終わり」という虚無感に捕らわれてしまったら、やはり自殺願望が生まれてしまうのではないか?逆にどんなに希望がなかろうが、つらくなければ惰性で生きる。
ハイデガーは死を覚悟する事で、本来の生を生きられると言った(ような気がする)。果たしてそうだろうか?虚無感から来る自殺願望を持ってしまった人に、それは当てはまるだろうか。


自殺を思いとどまらせるものとはなんだろう。「死んだら終わり」という虚無感に勝つものとはなんだろう。劇中の会話の中で「きれいな物から死んでいく。汚い物はたくましい」という事が言われる。それが関係しているように思える。
俺の解釈では、虚無感を超えるものは、希望ではなく、エネルギーだ。
逆説的な言い方になるが、不快感が作る緊張感は心地よさを生む。ずれが生むエネルギー。"希望"のような物語を必要とする装置ではなく、純粋な存在としてのエネルギー。
なぜいつまでも波は音を立て打ち寄せ続けるのか。希望があるからではない。ひたすら、ずれによるエネルギーを消費しているだけだ。人間も同じなのかもしれない。


量子力学で有名なシュレディンガーは「生命とは何か」という本で、
「生物は負のエントロピーを食べている」
と書いているそうだ(http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1043.html)。
これは生物がいつまでも熱死状態、無秩序な均衡状態にならず、むしろ秩序を生み出している事を指して言っている。言葉を変えれば、偏りやずれを作り出し続けて生きている。強引な例えになるかもしれないが、安定に向かう精神がエントロピーを増大させるとすれば、不安定さに向かう精神は、エントロピーを減少させ、それが生命力となる。


始めの方で、村上龍の小説を連想するがそれほどの物語はこの映画にはないと書いた。この映画の場合は、物語はあまり必要としていないのかもしれない。重要なのは、小説には表現不可能な、海や山などの自然に力を借りた本物の音のエネルギーだ。本物の空気の振動だ。


題名は聖書の一節だそうだ。そしてキルケゴールを連想させるセリフ。見ている時は宗教的なものを感じなかったが、そういう側面をもっと掘り下げて考えた方がいいのか?


今回はほとんど映画をどう解釈するかだけになってしまった。


科学的な虚無感。宗教も信じられない、経済的希望も信じられない。全てを壊す言葉「どうせ死ぬんでしょ」。俺はこの言葉に90年代的な雰囲気を感じる。Mr.Childrenが「宗教も科学もUFOもー」と歌った時代。「もののけ姫」のキャッチコピーとして「生きろ」と付けられた時代。
ここ数年「金を儲ける」事が生きる事の目的と成りうる人達が増えてきて、経済的希望の力がやや復活してきているような気はする。俺自身は「どうせ死ぬんでしょ」という言葉の方がリアリティがあるけどな。90年代の日本の方が俺にはしっくりくる。

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