「ストーカー」アルカジイ・ストルガツキー/ボリス・ストルガツキー 著

ソラリスの陽のもとに」を映画化しているタルコフスキーがこれも映画化している。人間が理解できない存在の痕跡が描かれている。科学者が知性について語る。こういうところから、「人間の知性」がテーマになっているのかと思いこんで読み終わってしまったけど、どうも主眼はそこではなかったみたいだ。うーん、でもそう言い切れるわけでもない?頭で読む小説なのかと思っていたが、どうもちりばめられている言葉の綾を掬いとって感じながら読む必要があったみたいだ。


ゾーンと呼ばれる、宇宙人が来訪した地域がある。今はその痕跡しか残っていないが、そこには未知の物質、現象であふれており、立ち入り禁止だ。そこに命がけで忍び込み、宇宙人が残していったがらくた、人間にとって得体の知れない物を盗み出すストーカーと呼ばれる連中がいる。
意図がよく分からない設定がいくつか出てくる。ゾーンからの移住者が住み着いた先では事故が増え、自然災害も増え、病気も増える。これは科学者の口から言われるだけでストーリーには絡まない。後で主人公が街から出られなくなったことに悪態をつくがそこに繋がるのか?
ストーカーの子供は奇形児になるらしい。もう人間ではないみたいだけど、死者が生き返るらしい。こういう設定は、どういう意図でこの小説に組み込まれているんだろう。ストーリーに大きく絡んでくることはない。その存在に何か感じるべきものがあるようだ。


そしてラスト。願望を叶えてくれるという<黄金の玉>に、犠牲を払いながらもたどり着く。そして願うのは、全ての者の幸福。ただし、そのセリフに至るまでには長い逡巡がある。このラストの言葉は、そのままの意味で受け取っていいのか。皮肉なのか。


医者からはもはや人間ではないと言われる状態の娘、ゾンビとなった父親、危険な土地と化した生まれ育った街。主人公はそういったものに執着し続ける。


主人公は、<黄金の玉>の前に<肉挽き器>があることを知っていたらしい。つまり同行者を最初から犠牲にするつもりだったわけだ。同行者は、ストーカー仲間<禿鷹>の息子だ。<禿鷹>は、過去<黄金の玉>までたどり着いた唯一の人間であり、主人公に<黄金の玉>を取りに行かせた張本人だ。
途中、<禿鷹>の息子と自分の娘のどちらを選ぶか二者択一だ、と考えている。この時には分からなかったが、同行者を犠牲にするかどうかという選択だったんだ。でもなぜここで娘が出てくるんだ?つまり、この時点では主人公の願いは、娘を普通の人間に戻すことだったということか?


ああ、そうか。少し繋がってきたぞ。<禿鷹>はかつて、<黄金の玉>に出来のいい子供と健康を願ったと言っている。それは実現はしているものの、<黄金の玉>の力によって願いが叶えられたのかどうかは分からない。小説全編で<黄金の玉>はあくまで噂の存在だ。
しかし、<禿鷹>が言っていたことはたぶん本当だったんだ。少なくても主人公はそう感じた。ストーカーの子供はゾーンの影響を受け、「人間ではない」存在となるが、<禿鷹>の娘と息子は立派に育っている。主人公にとって、医者がさじを投げた娘を人間に戻すための最後の希望が<黄金の玉>だったのか?
ただ、主人公は金のために仕事を引き受けたようなことを言っている。


ああ、今見直してみたら書いてあるじゃん!

それまでは耄碌爺の狂ったたわごとでありナンセンスであると思っていたことが、今では唯一の希望であり、人生の唯一の意義に変わったのだ。

この希望というのは、<黄金の玉>が娘を救うということだったのか。最初は金で引き受けるけども、実は無意識のうちにそこに希望があることは感じていた。それをこの時に、はっきりと意識するわけだ。なるほど、それでしばらくして、例の二者択一だという考えになるのか。
健康な子供を願って授かった<禿鷹>の子供を犠牲にして、自分の娘を助けようとする。そしてその皮肉を背景に、最後の逡巡に至る。自分が幸福になれば<禿鷹>が不幸になる。誰かが幸福になれば、誰かが割を食う。そこまでは分かった。
ただ、ラスト2ページがまだ理解しきれない。主人公は、自分も家族も宇宙人の技術も含めて、ゾーンに関係している物全て消えてなくなれと思っているのか?それが全ての者の幸福だと考えているのか?


この本の最初に引用されている言葉

きみは悪から善をつくるべきだ、
それ以外に方法がないのだから
    ロバート・P・ウォーレン

はそういう意味なのか?


この小説では、未知のモノがいろいろ出てくるが、それらは小説の意図と関係しているんだろうか。全ては<黄金の玉>を登場させるためだけの仕掛けなんだろうか。
科学者が言う。宇宙人の痕跡からいろいろなものを見つけ、技術を飛躍的に変化させる物があったとしても、最も重要なことはそれらではなく、宇宙に存在するのが自分たちだけではないと分かったことだ。
こういう視点は、小説の意図とどういう関係を持っているんだろう。


原題は「路傍のピクニック」と言うそうだ。これも科学者が説明する。宇宙人は大した目的を持って地球に来たわけではなくて、ピクニックみたいなものだったかもしれない。人間がピクニックで残したゴミを見た動物や昆虫のような立場に、人間が置かれている。
科学者の仮説は他にもいくつか出てくるが、題名に採用するぐらいだからこの視点がこの小説では重要なのだろう。主人公のラストの逡巡とこの視点は、どう絡み合うんだ?


この小説ではあえて宇宙人を登場させているが、現実だって同じだ。フラーレンカーボンナノチューブ、ヒトゲノム、最近話題のES細胞。そういった自然が作り出す物を発見して大騒ぎし、制御方法を見つける。
宇宙人が残した"物"は技術に過ぎない。それは人間はそれを手に入れ、技術を飛躍させるだけだ。科学者が言うように、宇宙人の存在が重要なのであって、痕跡に残された物は重要ではない。


こう考えてくると、技術の発展と人間に必要な物が違うということを言おうとしているのか。人間に必要な物は魂や考えることや知性であり、技術や知識ではない。さっきのピクニックの例えで言うなら、人間が捨てたゴミを見て浮かれる昆虫たちがいる。しかし、そんなものは昆虫にとって本当に重要なのか?昆虫自身の魂と幸福に、そんなものは関係ないんじゃないのか?
これがこの小説のテーマのような気がしてきた。


これを書きながらだいぶ理解が進んだ気がする。でも、まだまだ、この本を理解したとは言い難い。


ところで、さっき書いたこの本の冒頭に引用されているロバート・P・ウォーレンって誰だろう。「オール・ザ・キングスメン」の原作者ロバート・ペン・ウォーレン?


ストーカー (ハヤカワ文庫 SF 504)

ストーカー (ハヤカワ文庫 SF 504)