(テレビアニメ)「アカギ」とその他いろいろ

すっかりこれを書く習慣が途切れてしまった。そのせいではないと思うけど、たぶん一ヶ月ぐらい映画館に行ってない。年末になぜかまとめて買ってしまったゲームもきりが付いたし、パチスロ熱も少し冷めてきたし、またこれに戻れそうな気がする。
リハビリを兼ねて、今日は正月にたまたま見たテレビアニメ「アカギ」について。


アカギ―闇に降り立った天才 (1) (近代麻雀コミックス)」という麻雀漫画が好きで何度も読み返している。
その「アカギ」がアニメになって放送中なのは知っていたが、アニメで見直したいとも思わなかったので今まで見ていなかった。正月にたまたまやっていたので見てみたところ、これが予想外に面白い。
なんと言っても絵。版画を連想させるような力強い輪郭線。キュビスムの影響を受けたアートアニメかと思うような大胆な顔面。原作の絵も特徴的で、その原作の絵にかなり忠実ではあるんだけど、かなりおかしさが増している。俺にとっては衝撃的だった。
しかも、話は鷲巣との対決が始まったところだ!原作でもまだ終わってないんじゃないの?もしかして雑誌連載では終わってるのか?とりあえず一つの結末は見られるって事だ。これで見逃せなくなった。


少し話はずれるが、俺はユーザ名をabyssal-fish、深海魚という名前にした。この時イメージしていたものは二つある。一つは高階秀爾という人の「名画を見る眼 (岩波新書)」という本の中の一節。もう一つが漫画「アカギ」の中で、アカギを指して言われた言葉。

アカギと対決した麻雀打ちが言う。

あん人は海底深く潜む深海魚…
通常の魚のおいたちには
あん人の「深さ」が耐えられん………
あの深さに潜めるのは………
異形の魚…
異形の感性を持つ物だけ…

俺が、映画や本の感想やらなんやらで書こうと思っているのは、結局自分の心だ。映画や本から受けた印象が全ての文の出発点だと思っている。その曖昧模糊とした印象を、できるだけ正確に言葉で表現して心から取り出す。理屈や自分の考えというのは、その取り出した印象の後から付いてくる物だという気がする。
その印象を正確に取り出そうとする作業が、俺にとっては静かに深海に潜っていくイメージで、この深海魚に重なる。特に「異形の感性」という言葉に憧れる。


さらに話がずれるけど、昔読んだ筒井康隆の「文学部唯野教授 (岩波現代文庫―文芸)」の中で、もうかすかな記憶だけど、「印象批評」が昔の方法だと書かれていたと思う。文学理論を知らないので、もしかしたら理解が間違っているかもしれないけど、なぜ「印象批評」が古いのか、なぜその後に出てきている方法が優れているのか、あの本を読んだだけでは分からなかった。
作者は何かを伝えるために作品を書く。読者は本から何かを読み取る。できるだけ理解しようとはするものの、作者が伝えようとしたことを正確に読み取れるかどうかは分からない。しかし、読者にとって大事なのは、その本から何を感じたかだ。
作者は作文技術を見せるために本を書いているのか?読者に、技術を愛でることを要求しているのか?そうじゃなくて、たぶん、技術は道具に過ぎなくて、優れた技術を使って何か表現したいものがあったはずだ。
理論的、技術的に優れてても、何も感じない本に意味はない。やっぱり読者にとって、全ての出発点は印象のような気がする。
そもそも批評とか評論とかって何を目的にしてるんだ?「読者」と「批評家」では本を読む目的が違うのか?


ついでなので、もう一つ、高階秀爾という人の「名画を見る眼」についても書いておく。深海魚が出てくるのは、ドラクロワの「アルジェの女たち」という絵について書いた文だ。

 アラビア風の華やかな抽象模様のタイルで飾られた部屋のなかには、昼下がりのものうい黄色い光がさしこんでいる。まるで不思議な深海魚のいる水槽でも思わせるようなこの光の海の中に住む三人の女たちは、それぞれ多彩な衣装を身にまとい、思い思いの姿勢をとりながら、眠ったようにじっと動かない。
(中略)
ただひとり、画面の右端に登場する片手を挙げた黒人の小間使いが現実の動きを画面にもたらしているが、彼女は、われわれの逸楽のために夢の舞台をすっかり整えて、今まさに画面から立ち去ろうとしている。この小間使いがいなくなってしまえば、時間はその流れを停止して、女たちは完全に幻影の世界の存在となってしまうだろう。

こんな幻影の光の海を泳ぐ深海魚になりたい。
ちなみに「アルジェの女たち」はこんな絵。
アルジェの女たち


「アカギ」について書くつもりが、だいぶ話がずれた。今日はずれっぱなしで終わりにする。もしまた機会があれば「アカギ」について書こう。