「そして、ひと粒のひかり」 監督 ジョシュア・マーストン

雑誌「Number PLUS」の「南米蹴球記」を読んで以来、南米が俺の中で流行っている。と言っても、アストル・ピアソラのタンゴとかカエターノ・ヴェローゾをちょっと聴いてるぐらいだけど。それで、南米系の映画が見たいなと思って今回これを見たんだけど、残念ながら、舞台はニューヨークの時間が多いし、監督はどうもアメリカ人みたいだ。まあ、それは別にいいんだけど。
肝心な映画の中身は、「これで終わり?」って感じで、意図がよく分からなかった。


この映画は何を描こうとしたんだろう。俺は勝手にコロンビアの厳しい現実を描いた映画なのかと思っていた。主人公が花農園を辞めて、麻薬の運び屋になる展開で、ますますそういう映画を期待した。それはそれで外れてたわけでもないけど、でもそれはメインではなかったようだ。コロンビアの社会問題を期待していると肩すかしを喰らう。17歳の女の子が妊娠して金がほしいから運び屋をやる、というのは、テーマとしてはショッキングで興味を引く話ではあるけど、それが社会に繋がっていかない。


たぶん、コロンビアも運び屋という職業もサブテーマに過ぎなくて、メインは女性の意志だったのかな。男にもコロンビアという国にも失望した女性が、一人で子供を育てていくために環境を開拓していく姿を描いた映画だったのかもしれない。
それが分かっていれば、女友達との関係とか、運び屋仲間の姉との関係とかももう少し面白く見れたかもしれない。


マリアというとキリスト教のマリア様を連想してしまうけど、それは関係ない?良くある名前なのかな。
原題は「MARIA FULL OF GRACE」という。直訳すれば「気品に満ちあふれたマリア」?GRACEという言葉がまた宗教的な感じがする。
また、題名の後には「based on 1,000 true story」と出てくる。これってどういう意味?こういう立場にいる女性がたくさんいて、たくさんの人にインタビューして作ったって事なのかな。


主人公の女の子は、上品と言えるかどうかは分からないけど、責任を引き受ける覚悟を持った姿は気品があると見ることが出来る。
友人の女の子ブランカも運び屋をやるといった時に、マリアは自分も運び屋をやろうとしているのに、それを止めようとする。たぶんマリアには分かっているのだ。同じ事をしようとしていても、マリアには意志があり、ブランカは単に金に流されているだけだ。昨日書いた話と少し重なってくるが、マリアに意志があるというのは、自分の行動の責任を人のせいにしない覚悟があるということだ。これが持って生まれたものなのか、生活の中で培われてきたものなのか分からないが、マリアは元々そういう気高さを持っている。だから、言われたことを黙々とやるだけの仕事はできないし、自分に寄生するように生活する姉と母親にも不満があるし、妊娠して男に「結婚してもいい」と言われても生活のためだけに好きでもない男とは結婚しない。
2人の差はニューヨークでの逃亡生活に良く現れる。ブランカはただマリアの後を追いかけるだけだ。そして不平を言う。
この映画に対する不満は、この辺にあるかもしれない。マリアのこのあたりの行動が俺には理解できなかった。だから、ブランカの方にも同情してしまう。もしここでマリアに感情移入できれば、また少し違った印象を持ったかもしれない。


ちなみにコロンビア。
コロンビア - Wikipedia
麻薬のイメージしかないな。