「のだめカンタービレ」 二ノ宮知子 著

なるほど、人気があるだけあって面白い。途中、こたつを持ち込んだせいで自堕落な生活を送ってしまう話があるが、この漫画がまさにこたつのような、ぬるい心地よさを持っている。「ぬるい」というと否定的な感じがするが決してそんなことはなくて、しばらく浸っていたいと思わせる世界だ。このぬるさの魅力について考えることは、笑いについて考える事よりも野暮ったい。笑いは多かれ少なかれ分析に受け入れるアグレッシブさがある。それでも思うところはいろいろあったので書いてみたい。


少女漫画はほとんど読まないので見当違いなことを言うかもしれないけど、最初に思ったのは、主人公のだめが「NANA」の小松奈々と似ているなということだった。ちょっと天然が入っていて、人からペットのように可愛がられる存在。
こんなことを言って、怒られるのか当たり前だと呆れられるのかよく分からないけど、女の子にはもしかして男のペットになりたいという願望があるのか?そうというと何やらSM的な臭いがしてくるけど、そういうことではなくて、世話をしてもらって、可愛がってもらって、かまってもらいたい時にはかまってもらいたいとストレートに伝えて、日がな一日難しいことは考えずにのんびり過ごす。
うーん、そうか、それだったら俺がなりたい。余計なことを書きすぎたな。単純にペットのように可愛がられたいという欲求があるかどうか?それだったら俺にはない。けど、女の子にはそれがあるのかな。それも分からないでもない。


前に何かで読んだのは、現代人は自由に押しつぶされそうになっているという話だ。自由に自分の意志で何かを決められるということは、逆に言えばその結果が自分の責任だと言うことだ。責任とはなんだというのもよく分からないけど、それでもその責任が重荷になり、むしろ自由を捨てたがっているという話だったと思う。他人の言うことに従っていれば、結果は他人の責任だ。
ペットになりたいというのは、逆説的だけど、自由をなくすことで、精神的に責任から自由になりたいという気持ちの現れのような気がする。責任というのは得体の知れないものだけど負担だ。のだめは自分の責任という重いものを感じさせない。


俺はこの漫画の何を楽しんでいるのか。主人公の男、千秋真一に感情移入しているのか?たしかにそういう部分はある。容姿が良くて天才で、何もしなくても女が寄ってくる。それはうらやましい。けど、そこだけではないような気がする。のだめに感情移入しているのでもない。言ってみれば、この非現実的な人間関係のような気がする。
この漫画の本来の読者層がどのくらいの年齢層なのか知らないが、のだめと千秋真一の関係は非現実的だ。野暮ったいことを承知で言うが、非現実的だ。のだめは「好き」を連発し、真一の部屋に入り浸り、食事を作ってもらい、風呂を借り、たまには泊まり、「妻」を名乗る。真一はうざったがってはいるけど、のだめに惹かれている部分はある。実家まで追いかけていったり、ヨーロッパに連れて行ったりする。けど、2人の間には何もない(んだよね?)。
生臭いセックスだとか結婚だとかを排除した非現実的な恋愛を大人がしている。こういう部分がぬるい心地よさの源なのかもしれない。のだめは自分を「妻です」と人に紹介したり、「欲情してる」と真一に言ったりするが、ほとんど子供のままごとのようで、その先が想像できない変な安心感がある。


これは想像でしかないが、女の子はまた少し違う感じ方をしているんじゃないかという気がする。好きな人に好きと言いたいだけ言って、しつこく付きまとえる、のだめのようになりたいという憧れがあるんじゃないだろうか。
のだめの性格もまた非現実的だ。まるで、自分が好きだったらそれでいいんだというくらいに、気持ち的な見返りがないことを気にしていない。たぶん、現実でこれだけ何の反応もなければ相当応えるだろう。「自分のことが嫌いなのかも」「魅力がないのかも」そういう怖さが沸き上がってくると思う。そういう怖さが素直さを失わせる。ところが、のだめはそんな恐怖はお構いなしに素直だ。しかもそれでなぜか、なんとなくうまくいってしまう。少し、そういうことを気にしていることを感じさせるシーンもあることはあるが、すぐ元のぬるさに戻り、鋭利な印象はかき消される。


だいぶここでは単純化して考えたけど、もしかしたら、俺が感じなかった綾があるのか?もしかして、のだめは「脈あり」と無意識に感じ取っているのか?


舞台がヨーロッパに移ってからは、のだめの天才性も表に出てきて、こたつ的なぬるさがやや薄くなる。この後、この適温のぬるま湯はさらに薄まっていってしまうんだろうか。そうなったら残念だ。