「世界」 監督 ジャ・ジャンクー 

”世界”とは何だろう。幅広い言葉だ。観光名所が世界なのか。そうも言える。けど、それだけではない。今いるこの場所が世界なのだ。と同時に世界はここだけではない。そういう事を鮮やかに見せてくれたような気がする。
この映画はかなり騒々しい映画だ。2人で話をしている。ふと沈黙が訪れる。しかし、完全な沈黙はない。会話が途切れた時、近くで話をしている人たちの声や、エアコンやエンジンの音が聞こえてくる。その雑音は物語外の世界の存在証明だ。


なんともかっこいい!この映画がずぱっと切り取って見せる世界の、切り口の鋭さに圧倒される。燃える服。屋上を飛び去る飛行機。並んだライト。道に沿って単調に並んだだけの暗闇に浮かぶライトが、なぜこの映画では"世界"を表現できるんだろう。そして世界の歪みを体現しているかのような音楽。ただ、その音楽の格好良さは、逆にやや映画の鋭さをなまらせていたようにも感じたけど。


ストーリー的には理解できたとは言い難い。顔と名前が一致しない人物もいたので、もう一度見たらストーリー的な部分もきちんと理解できて、この映画の違う面を見ることになるかもしれない。
基本的には、(大都市固有の?)閉塞感や漠然とした不安という個人的な問題を扱っている。でも、その個人的な問題こそが世界だと言っているようだ。ここでいう世界とは、世界各国とか地球とかそういう場所的な意味合いというよりも、存在とか現実とか、そういうニュアンスをより多く帯びている。


煌びやかで広大な"世界"には、ここにない何かがあるんじゃないかと期待し、主人公達は田舎を出たのだろう。しかし、行ってみれば、そこはやはり"ここ"でしかなかった。どこへ行こうと、"ここ"という現実でしかない閉塞感。世界の名所の集めたという個性が曖昧な土地で、自分の存在もあやふやになっていく。
移動するシーンが何度も現れる。移動する乗り物も何度も現れる。たくさんの人が目の前に現れ、たくさんの人が去っていく。この映画の最後の章の題名のように、世界は日々変わっていく。しかし主人公達は置いていかれる。
映画のラストでは、何がきっかけだったのか理解できなかったが、ついに旅立ちが暗示される。たぶん、必要なのは場所の移動ではなく、精神的な移動なのだ。


この映画では音や声が存在の証であるように感じた。最初に書いたように、周囲の雑音は周囲の存在を保証する。声があれば、言葉が分からなくてもコミュニケーションがとれる。それに対し、何度も出てくる携帯のメールは、着信音はするものの、そのメッセージは空気を振るわせない。そしてアニメーション。コミュニケーションの中に、存在の不確かさが紛れ込んでいる。


ラストは真っ暗な画面で短い会話がなされて終わる。姿が見えず声だけで「始まり」と言うことで、主人公達の存在や個人的な“世界”が、これまでより明確になっていく事が予感される。まだ漠然とした不安を感じさせながらではあるけども。本人が気持ちを変えたとしても、周りの環境は変わらない。あのラストは希望的なものなんだろうか。もうちょっと話を良く理解しないと分からないな。


たまにピントがずれているのが気になったが、あれはオリジナルがそのようになっているんだろうか。それとも、映画館の映写の問題だろうか。