「殺人に関する短いフィルム」 監督 クシシュトフ・キェシロフスキ

デカローグの1つを1本の映画したものらしい。デカローグは見ていないけどいいのかなと不安になりつつ。
物語は至ってシンプルだ。衝動で殺人を犯す。死刑になる。弁護士は、犯行直前の犯人とすれ違っている。最後にすこし犯人の背景が語られるが、そういうドラマ的要素がむしろ不純物のように感じてしまう。これほどそっけない映画が、見ていて面白いのはなぜだろう。


たぶん、この映画は「人を殺すこと」以外がテーマだったとしても面白い映画になったろう。俺が興味を持つのは、「人を殺すこと」よりも、ストーリーがほとんどないこの映画がなぜ面白いのかと言うことだ。


殺人のドキュメンタリーのように見える。ドキュメンタリー?ドキュメンタリーと言うよりは盗撮の方が近いだろうか。しかし、フィルムの感触はむしろ作為的なものを感じさせる。まるで焼け跡から拾ってきたフィルムを再現しているような、画面のかなりの部分を覆う陰。色相の異常。
物語というものを排除している。全くないわけじゃない。どこまで排除しているかを考えようとすると、その前に「物語」とは何かを考えなくてはいけないのでここでは深く考えない。
映画を展開させるのは、ストーリーの展開だけではない。この映画を見ていると、そう感じる。映像は物語を語るためのただの道具ではない。物語の従属物ではない映像が映画を展開させる。


見た時はそう思った。けど、今これを書きながら違うかもしれないという気がしてきた。もしこれを小説化したとしても、面白いんじゃないかという気がしてきたのだ。
空想の小説版を想像してみる。なるべく固有名詞は排除する。ぶっきらぼうな語り口。感情移入を許さない距離感。心情を直接描くことはせずに、行動を描写するだけのハードボイルド小説的なものになるだろうか。


これがそのままこの映画の面白さだ。登場人物の気持ちを直接表す台詞やシーンがないわけではないけど、かなり少ない。特に犯人や被害者に関しては、意味のない行動を写す。それは、登場人物との距離感を生み、同時に登場人物達の無目標感も感じさせる。
感情移入を拒むために、被害者も加害者も、完全な善人ではないし、完全な悪人でもない。この映画の面白さは、媒体が映像かどうかはあまり重要じゃないのかもしれない。重要なのは、感情移入を拒む姿勢だ。


この映画のテーマだと思われる「殺人」を、見ている者に考えさせる上で、この登場人物との距離感は重要だ。殺人や死刑制度の是非を取り上げた映画はいくつかある。しかし、感情移入させ、最終的に観客の涙を誘うような作りの映画は、卑怯とまでは言わないものの、強制的に一方の視点で問題を見せている点と、問題を別の次元で昇華させてしまう点で、観客の目を欺いている感じがする。


それに比べ、この映画ではかなり純粋に殺人を描こうとしているように見える。ドラマで「殺人」という素材を薄めることはしない。感情移入をさせない姿勢が、出来事の装飾を剥ぎ、純粋な出来事が映し出される。出来事に対する意味付けや解釈は、観客に委ねられている。たぶん、監督の考えは、弁護士の面接シーンの会話にあるのだろう。しかし、それを押しつけることはしていない。


今まで俺は何人の人とすれ違ってきたか。同じ電車に乗った、同じ店にいた、道ですれ違った、そういう人を全て数えたら何人になるだろう。見当もつかない。それだけいれば、たぶん犯罪者とすれ違ったことは何度もあるだろう。
この映画の弁護士のようにそれに気付く機会はないが、この映画の監督や観客の多くは、弁護士と同じ立場にいる。


題名には「短いフィルム」とある。なぜあえて短いと言っているのだろう。普通の映画と比較して短い?そうじゃないだろう。90分もある。何に対して短いと言っているのか。現実の時間に対して?この映画のテーマについて考えるべき時間に対して?


この映画では2つの殺人が行われる。1つは非合法な衝動的な殺人。もう1つは合法的な死刑。悪とは何か。たぶんこの映画で観客に考えさせようとしたことは、ほんとうはそういうことだろう。でも、今回はそういうことを考えるところまで行かなかった。いつかデカローグを見ることがあったらその時に。