「チャーリーとチョコレート工場」 監督 ティム・バートン

児童書が原作らしいので、多少のどぎつさは、毒と言うよりやや単調な教育的展開に感じて鼻につく。もう少し鬱屈した残虐さがあっても良かったんじゃないかという気がした。だけど、それは俺にとってあまり大きな問題じゃない。
銀河ヒッチハイク・ガイド」で考えた事がまだ頭に残っているせいかもしれないけど、この映画で俺が心を動かされるのは、現実に流されずに、想像の世界を作り上げようという意志だ。しかも、それを完全なファンタジーという形じゃなくて、現実の世界の中に打ち立ててしまおうという心意気だ。


舞台は現実の現代の世界だ。世界中の具体的な地名や風景が登場する。東京も登場する。そんな中に作られた主人公チャーリーが住む漫画のような家。不自然に傾いている。
現実を再構成した世界。「リアルであること」に流されない姿勢。


この感触を、俺は最近のティム・バートンの映画にあまり感じなかった。そのせいか、昔のような魅力をここ何作かあまり感じなかった。評判の良かった「ビッグ・フィッシュ」でも、まともさをより強く感じてしまって物足りなかった。
それがこの映画では復活していた。


やがて登場するウォンカとチョコレート工場内部とウンパルンパ


ジョニー・デップ扮するウォンカのわがまま加減は、まるっきり子供だ。だけど工場に集められた5人の子供とはだいぶ違う。子供達は、形はどうあれ、外の世界になじんでいる。ウォンカは、外の世界とのずれと違和感を漂わす。それから、そのずれが生み出したであろう痛み。


チョコレート工場の魅力的なインチキ臭さ。その甘美な魅力はなんだろう。
リアルではない物をかき集めて、この世界を作り上げようとするエネルギーは生半可な物じゃない。世間との違和感を燃料にし、尋常でない力を発揮しそこに注いでいる。それは自分の中の鬱屈した精神を発散させるためでもあるし、同時に、作り上げた物は回りの世界から自分を守るための要塞でもあるかのように見える。ウォンカは、工場の従業員を全員辞めさせ、一人で工場に運営し、人に姿を見せない。この自作極彩色要塞の引きこもりだ。ウォンカに見た辛さや痛みが、このインチキ臭さを彩る。
これを作った人物は誰か。物語的には登場人物ウォンカだし、現実的には監督ティム・バートンだ。両者はだぶって見えてくる。


残念なのは、あの超自然的なエレベータを初めとする、所々にある綺麗な映像だ。その映像が滑らかすぎて、それまでのハリボテ的世界が壊されてしまった気がする。
ウォンカにしても、その特性の原因が子供時代にあったとされて、最後に解消されてしまい、話は尻すぼみになってしまったように感じた。これは原作があるせいなのか。


過去の映画を連想させるシーンがたびたび登場する。
なんの意味があったんだ?パロディ?そうだとしたらあんまり成功していないような……
いや、なんかありそうな気がする。というか俺が気が付いていない点に引っかけたパロディのような気がする……


子供の中の一人に、ベルーカ・ソルトという名前の子がいる。何年か前にベルーカ・ソルトという名前のバンドがいたけど、なんか意味はあるのかな?あ、もしかして逆?原作でもベルーカ・ソルトという名前が使われていて、そこからバンド名を付けたのかな?