「銀河ヒッチハイク・ガイド」 監督 ガース・ジェニングス

原作が面白いという点で期待が、原作の面白さはたくさんの説明による物だという点で不安がある映画化だった。結論から言えば、面白い。これほど面白い映画になるとは思わなかった。もともとTVドラマにもなっているらしいがそちらは見てないので、それと比較する事はできないけど、言葉による小説の面白さが、俺から見ると映画らしい面白さにうまく置き換えられていたように感じた。


昨日も書いたけど、意味のなさにこそ面白さがあるのに、あまりそれについて考えてしまうと面白さが消えてしまうような気がする。メロディを音符に分解するとメロディが消えてしまうように。
それでもやはり何が面白かったのか確認したい。


この映画で俺が一番好きなのは、無限不可能性ドライヴによる移動だ。アーサーとフォードが突然ソファになってしまうシーン。乗組員全員がニット人形になってしまうシーン。この2つは、この映画の中で一番面白かったというだけでなく、今まで見た映画の中でも屈指のシーンだ。その唐突さ。俺にはこれが映画らしい面白さだ。小説だと一つずつ説明していかなければならない。それが映像では一瞬で全てが変わってしまった事を見る事がができる。そして変化の意味が分からない。「2001年宇宙の旅」の哲学性すら連想させる。そういう深淵性を感じさせながら、ニット人形という深遠さとほど遠いイメージの組み合わせの妙。


話はずれるが、何年か前に「エヴァンゲリオン シト新生」を映画館で見た。その時はTV版も見ておらず、ストーリーも全く知らない状態で見た。「シト新生」はTV版のダイジェストのような内容なのだが、きちんとした登場人物の説明もなく、状況の説明もなく、話が行ったり来たりし、回想シーンや空想シーンが混じり、全く話が理解できなかった。そして、その理解できない唐突さが強烈に面白かった。その後、TV版を見てからもう一度見たら、一応理解できる内容だったので少しがっかりした事がある。


ずれついでにもう一つ。「不思議惑星キンザザ」という映画がある。この映画で一番好きなシーンは、始まってすぐ、地球人が街で「なんだこれ」と移動装置のようなものをいじってしまうと、突然回りの風景が砂漠に変わってしまうというところだ。内容はもうよく覚えてないので、少し違ったかもしれない。とりあえず突然あたりの風景が、なんの予告もなく、砂漠になってしまうのだ。


こういう唐突さが俺のつぼだ。「銀河ヒッチハイク・ガイド」には俺のつぼを刺激するシーンがいくつもある。


「あわてるな」とヒッチハイク・ガイドの表紙に書かれているそうだ。つまり、宇宙はあなたの常識や予想と違う世界ですよと、ヒッチハイク・ガイドは予告しているのだ。
例えば、ミサイルがなぜマッコウクジラや鉢植えになってしまったのか。
地球人にはそれを理解する知識はない。ただ、その現実を受け入れるしかないのだ。世界は、無慈悲に、唐突に、ただ存在するのだ。説明もいいわけもない。


多くのフィクションでは、リアリティを出すための説明をいろいろする。でも、そんなものは本当は必要ないのだ。というより、説明できる世界こそ作り物の世界なのだ。
これは、コメディとかシリアスドラマとかジャンルの問題ではない。
例えば、北野武デヴィッド・リンチの映画は説明のない世界を描く。「ヒッチハイク・ガイド」とこの2人の映画を並べるのは無謀かもしれない。実際、ヒッチハイク・ガイド」を見ている時にはまったく思い出さなかった。だけど、今こうして考えてみると、俺の中では、面白さを感じる部分の感触が似ている気がする。
背後に横たわっている世界観の問題だ。
映画に描かれる世界は、観客の常識とか予測とは関係なく存在する。
そういう考え方が透けて見える感触が、きっと俺の琴線に触れるんだろう。


radioheadのparanoid andoroidが、マーヴィンに捧げられた歌だったと今回初めて知った。コメディとかシリアスとか、ジャンルの問題ではないんだ。