「山猫」 監督 ルキノ・ヴィスコンティ

40年前に、その100年前のイタリアの貴族を描いた映画だ。なんだか時制の文法を説明しようとしているみたいだ。140年前というと、ちょうど日本では明治維新の頃だ。明治維新を背景にした40年前の日本映画があったとして、現在のイタリア人がそれを見てどれだけ理解できる?それと同じだ。現在のイタリアも、40年前のイタリアも、140年前のイタリアも知らない俺が観て、どれだけ理解できる?しかも主人公は貴族だ。理解するために何重の壁があるんだ?


元々、映画に限らずあらゆる表現物は、受け取る側が制作者の意図を完全に理解する事はできない。作った人が意識してない物が表現されている場合もある。受け取った側がまるっきり独自の解釈をする場合もある。けど、それはそれでありだろうとは思う。
それでも、まず俺は、制作者達が何を見せようとしたのかを考えるところから入りたいと思っている。
……でもこう書いてみたら、それでいいのか少し不安になった。


でもまあ、とりあえず、この映画だ。
文学なんかだと数百年、数千年前の作品がいまだに読まれてたりする事を考えれば、40年ぐらい前の作品を理解するのも全然無理な話じゃない。知識さえあればの話だけど。
この映画の場合、時代背景がドラマの重要な鍵となっている。この辺の知識が俺にはないので、いまいちドラマも輪郭がぼやけてしまう。


例えば、主人公の甥が最初は革命派として戦っていたのに、途中で国王軍に入る。どうも主人公はその点で煮え切らないものを感じているようなんだけど、そういう所の気持ちがはっきりと分からない。
他にも疑問は山ほどある。
シチリアの国王が倒されて、シチリアがイタリア統一国王の元に入ったのか?
革命派と統一国王はどういう関係なのか?
主人公の理想とどう違っているのか?
庶民は結局どっちがいいと思ってるのか?
貴族は、体制に関係なく偉いままなのか?
というか、貴族って何?男爵と公爵って違うの?
貴族はその土地を支配してるの?日本で言うと大名みたいな感じ?
ポール・マッカートニーとかミック・ジャガーが土地を支配してるようには見えないけど、あの人たちがもらったsirとは違うのか?イギリスとイタリアの違い?
新しい体制になったからといって、庶民から石を投げられるような状況じゃないように見えたけど、解説を読むと、貴族はここから没落していくらしい。なぜ?。


この辺までは140年前のイタリアの知識がないことによる理解できない点だ。
作られたのが40年前で舞台がイタリアというのも理解の妨げになる。
知識があったとしても、たぶん40年前にこの映画を見るのと、今見るのとでは大分印象が違うだろう。


開始早々の戦闘シーン。なかなかの迫力だったと思う。
ただ、幸か不幸か、これでもかと言うくらいに視覚的に派手な戦闘シーンを見慣れてしまっている現在からみるとむしろ間延びした雰囲気さえ感じる。


途中、ほこりまみれの顔で礼拝堂に行くシーンがある。俺はそれを見てドリフの爆発コントを思い出して面白かったんだけど、あれは笑わすつもりのシーンだったのか?ほこりの付き方が大げさに見えたけど、まじめなシーンなのか?


シチリアは忘れてもらいたいと願っていると言う。いろいろな国に翻弄されてきたからというだけなのか。シチリアの歴史を知らないとこの台詞の意味は分からないだろう。


他にもまだまだあるだろうなあ。


と、いろいろ疑問があって輪郭ははっきりはしないけど、それでも雰囲気は何となく分かってくる。
どうも革命後は理想ばかりを言ってられない状況らしいと言う事はなんとなく分かる。それで、目をかけていた甥を俗物の娘と結婚させる。
それから、貴族の娘達を見て、猿みたいだと言っている所からすると、今までの貴族のあり方にも、なにやら疑問を持っているようだ。


どのように変わっているのかは分からなかったけど、主人公は変わりゆく情勢を感じ取っている。その流れは自分の理想に反したものだ。自分自身は理想に反した流れに乗らないけど、甥がそのレールに乗るのは手助けしてやる。
外の世界が変わっていく事へのあきらめと、自身の性根までは流されない誇り。
バート・ランカスターの威厳の前では、アラン・ドロンもまだ小僧だ。
後半、主人公は死を意識する。それは己の死と自分の理想の衰退と2つが入り交じっているように見える。
舞踏会の最中、一人鏡に向かって、何を想い涙を流したのか。
ドラマの輪郭がはっきりしないので分からないが、それでも荘厳さを感じさせる。


俺がすこし意外だったのは終わり方だ。てっきり主人公が死んで終わるのかと思ったら、そういう盛り上げ方はしなかった。それによって主人公の侘びしさが強調された気がした。


上院要請の使者との会話がこの映画を理解する一つのピークだと感じた。残念ながら、理解できない。なぜ甘美な死を求めているのか。


豪華絢爛な画面だった。けど、それをそのまま豪華絢爛とはしゃいでいればいいのか?たぶん、そうじゃないんじゃないだろうか。あの豪奢さは逆に無を表現しているように感じた。