「東京奇譚集」 村上春樹 著

短編は苦手だ。何を言おうとしているのか分からない事が多い。小説として発表するからには何かしら伝えようとしている事があるはずだ。それは意外な展開の面白さかもしれないし、問題意識かもしれないし、ある瞬間の感情かもしれないし、文章自体かもしれない。とにかく何かしらあるはずだ。

この本の短編は、何を表現しようとしているんだろうか。


この短編集には5つの短編が収められている。当然それぞれ違う内容だ。だから、ひとまとめにした感想を書くのは本当は適当じゃないのかもしれない。でも、短編集としてまとめられ、共通したものがないわけでもないから、ここでは全体の感想を書いてみたい。


多くの登場人物は、自分という存在の何かを欠損している。または何かを押し込めてなかった事にしている。
それは、いろいろな例えで随所で表現されている。自分の音楽が弾けないとか、名前がないとか。争いを避ける性格というのも、この小説の中では、自己を押し込めた結果として扱われている。
興味深く思ったのは、そういう人たちは、人を愛することができない。
もしかしたら、そういう因果関係はなくて、人を愛することができないというのも、自己の欠損の表現の一つかもしれない。


そういう人たちが自分を見つめ直す。
そういう話だと俺は解釈した。
それともう一つ。重要なメッセージとして、「心や人生の流動性」があるかなという気がした。


最初の短編の題名は「偶然の旅人」だ。
少し話がずれるが、昔「偶然の旅行者」という小説と映画があった。本の方は今は絶版になっているらしいけど、映画のほうはDVDになっているみたいだ。解説なんかを見て見ると、テーマが村上春樹に近い気がする。
さらに話がずれるが、その「偶然の旅行者」という題名はこれでいいのか?「The Accidental tourist」が原題だ。英語のニュアンスは分からないけど、日本語の「アクシデント」のニュアンスとはだいぶ違うけどいいのかな?


村上春樹の話に戻ると、この「偶然の旅人」いう題名だけど、「日々移動する腎臓のかたちをした石」という短編の方が、この題名にふさわしかったんじゃないのかという気がした。
最初は「日々移動する・・・・・・」のラストの意味が分からなかった。誰かひとりを受容する?今までの話とどう繋がってるんだ?
しばらく考えてやっと気がついた。


よく「好きになった人が理想のタイプです」という台詞を聞くけど、たぶんそれがこの短編のメッセージだ。潜在的な「理想の女性」が世界の中にいるわけではない。
そういう固定的な「理想の女性」を捨て、その時々の流れの中で出会った一人を受容する。結果的にその人と続くかもしれないし、続かないかもしれない。ただ、その瞬間はその人ひとりだけだという意味で、その人は最初であり最後だ。


そういう流動性の象徴が、風や綱渡りなんじゃないだろうか。
流れに身をまかせるからこそ、バランス感覚が必要なんだ。


流動性を象徴するものは、ほかの短編にも出てくる。
偶然、風、音楽、サーフィン、綱渡り、移動する石……


「理想」の金科玉条をかかげた、固定された心というものを否定しているんじゃないだろうか。その時々の自分の気持ちや人生というのは流動的だ。なりゆきを否定せず、自分の心や直感に誠実に生きるべきだというメッセージを、俺は読み取った。


すがすがしく、心地よい読後感がある。
心と人生の流動性を受容せよ。


だけど、このような俺の解釈で考えると、村上春樹は自分の心というものを信用しすぎているような気がする。
インプロヴィゼーションを作品の形ににする事ができる人は限られてるんじゃないだろうか。
これは直感的なものだ。あとでもう少し考えてみよう。