「アフターダーク」 村上春樹 著

あまりにも意味ありげなものが多い。今回読んだのは3回目だけど、読むたびに複雑さが見えてくる。メタファーの氾濫を図にしてみたけど、複雑すぎてまとまらない。まったくメタファーのパズルだ。


おそらく、大まかな構造は「不自然で論理的な世界」と「自然で個性的な世界」の対立だ。
「不自然で論理的な世界」は完璧を目指す。個性はなく、顔も名前もなくなる。ただの記号となる。グレーゾーンはない。
そこに属するのは、夜であり、裁判であり、ファミレスであり、コンピュータであり、役割であり、ラブホであり、鏡の向こう側であり、中国人組織であり、都市だ。それから、独特の映画カメラのような語り手の視点は、この本自体も「不自然な世界」属している事を現しているのか。逆にどちらにも属していない中立性を現しているのか。

「自然で個性的な世界」を形作るのは、名前であり、顔であり、好奇心や関心であり、記憶であり、グレーゾーンであり、双方向のコミュニケーションだ。

しかし、2つの世界の壁は薄く、また明確に分かれているわけではない。「自然な世界」の住人も容易に「不自然な世界」に取り込まれてしまう。


この物語は浅川エリの「不自然な夜の世界」の冒険談と言えると思う。一晩「不自然な世界」を探検し、2つの世界の中間にいるタカハシに出会い、最後に「不自然な世界」に取り込まれてしまった姉を取り戻す希望が描かれる。


個性は、村上春樹が最初から作品の特徴として扱ってきたものだ。だけど、村上春樹はいつの頃からか、完璧さを悪を結びつけるようになったような気がする。
「ねじまき鳥」ぐらいからだろうか。
最初の頃は、むしろ「不自然で論理的」であることが個性として扱われていなかったか?


「論理的」≒「不自然」≒「非個性」≒「悪」という図式が前提になっているように見える。それはどうなの?
こう書いてみると、それもおかしい事ではないかなという気がしてきた。
完璧な世界が最後に崩れてめでたしめでたし、という話はよくある。
でもなあ、論理的である事は「悪」なのかなあ?
ああ、そうか。論理そのものが悪というのではなくて、論理によって個性を殺してしまうのが悪なんだ。
ああ、なんか見えてきた。「論理」も「不自然さ」も、それが個性を殺す面において悪だと言ってるんだ。たぶん。


人間を救うのは、記憶や好奇心などのアイデンティティと、相手を理解しようとするコミュニケーションだというのが、この本のメッセージと解釈した。そして、「論理」に流されそうになっても、個性は維持しなくてはいけない。
こうまとめるとありふれたメッセージではあるけど、いろんな所に当てはめる事ができる、とても現代的なメッセージに思える。