「アンダーグラウンド」 監督エミール・クストリッツァ

この奔放さに圧倒される。そういう面白さは感じる。だけど、たぶん俺はこの映画を理解できない。
「苦痛と悲しみと喜びなしでは"かつて国があった"と語れない」
その言葉が、この映画のテーマを語っているように見えるが、その言葉の意味は実感できない。


たぶん普通の日本人は、この映画をヨーロッパ人のようには見る事ができない。それは感性の違いとか考え方の違いとか、そういう一般論のレベルで違うだけではなく、もっと具体的に「国」と「歴史」のイメージの違いが大きそうだからだ。
そして、その2つこそが、この映画の大きなテーマだ。


たぶん、「国」と「歴史」の概念は住んでいる国によって違う。
たぶん多くの今の日本人にとって、国境とは自然によって作られたもので、人為的なものという印象は少ない。どの島までが日本かという意識はあっても、ほとんど海岸線が国境と同義と感じているのではないか。
それから、日本にも昔戦国時代があったとはいえ、その当時の国全てひっくるめて「日本という国の歴史」に納める事ができる。
蝦夷琉球に関しては少し違った観点があるかもしれないが、それらについての知識はないので、単純に日本の一部の歴史と思っている。


ユーゴスラヴィアの場合はどうか。知識がなさすぎて判断するのも憚れるが、彼らにとっての国の歴史とはなんだろう。その土地には何千年か人の暮らしがある。しかし、それは国の歴史とはたぶん考えていないだろう。あるのは土地の歴史だ。いや、ユーゴスラヴィアに限らず、ヨーロッパという土地では、国境線は常に揺らいでいるものだ。たぶん。

日本では、と書くと違うかな、俺は「土地の歴史」≒「日本の歴史」と思っている。しかし、他の地域では「土地の歴史」≠「国の歴史」だ。


この映画の中には、二重の歴史と二重の時間が作り出されている。地上の歴史と地下の歴史だ。
地下の歴史と時間はマルコによって作られる。第二次世界大戦はえんえんと続いている。地上よりもゆっくり時間が進み、地上で20年経っているのに、地下では15年だ。
地上の歴史は?地上の歴史もマルコによって作られる。クロは死んだ事になり、マルコは英雄だ。その物語は映画化され、まさに歴史が作られる。
この「UNDERGROUND」という映画の中には、映画として歴史が作られる現場が撮影され、「台詞の中に真実はない」という台詞がある。そういう映画が現実の世界で政治的な批判を受ける。
俺は、こういう構造が、物語の背景として、作り物としておもしろいと感じる。だけど、クストリッツァにとっては、現実の「国」と「歴史」がこのような人為的なものなんじゃないだろうか。さらには、もしかしたら、ほとんどの国の人は、この構造を現実とリンクさせる事ができるんじゃないだろうか。


印象的なシーンが多い。中でも浮遊するイメージ、上下左右が揺さぶられるイメージが多用されていると感じた。中を浮く花嫁、水中を泳ぐ人、ぶら下がる楽団、鏡、いくつかの文字が左右逆になっているUNDERGROUNDというタイトル等々。国境線の危うさ、今はなきユーゴスラヴィアを表現しているのか?


オープニングで「かつて国があった」と表示され、ラストで、「苦痛と悲しみと喜びなしでは"かつて国があった"と語れない」という台詞が出てくる。たぶん、ラストは新しい国ができる様子を現しているのだろう。新しい国は、新しいもので構成されているわけではない。かつてあった国をご破算にすることはできない。新しい国はそれまでの過去を引き継いで作られるのだ。
これが俺が解釈したこの映画のテーマだ。そして、それは全く実感できないテーマだ。


「グッバイ・レーニン」を見た時は全然この映画を思い出さなかったけど、今思うとアイデアが似てたんだな。