「アルファヴィル」監督ジャン・リュック・ゴダール

これまた、難しいのを見たような気がするけど、話のプロット自体は意外と単純?整理してみよう。
アルファヴィルというのは、コンピュータが支配している。ラストでは住民がおかしくなってしまう。その事からすると、そこに住む人達は単に洗脳されているというだけではなく、何か直接コンピュータの影響を受けているらしい。その世界では論理が全てであり、感情的な物は排除されている。そこに主人公が現れ、その世界を破壊する。ついでにその世界の女性を一人助ける。その女性は愛という感情を知ることで、自己を取り戻す。
こんな感じかな?
こうまとめてしまうと、よくある話と言えばよくある話だ。「1984」、「未来世紀ブラジル」、さらに「華氏451」や「時計仕掛けのオレンジ」、「カッコーの巣の上で」までもまとめてしまってもいいかもしれない。もっと拡張するなら「ターミネーター」や「マトリックス」までひとくくりにする事も可能だろう。
逆に、当然だけども、違うと言えば違う。
泣く事や笑う事まで禁じるというのは、この映画独特かな?いや、それもありそうな気がするけど、今あげた映画と比較すると、この映画の特徴として挙げていい気がする。
管理社会を描く物語の多くは、「管理」と対比させる事で「自由意志」を描こうとしている。「アルファヴィル」の場合、似ているけども、「論理」と「感情」の対比という面が際だつ。最後に愛という感情が勝つわけだ。勝つというか、感情によって自己を発見する?自己が作られる?感情こそが自己、個性だということかもしれない。
面白いのは、その感情というのは、名前を付け言葉で表現して初めて認識できる。つまり言葉によって認識して自己や意識というものが生まれる。一方でこの映画の論理社会で聖書と言われているのが辞書だ。つまり言葉だ。辞書に書いてないものは、認識できない物となる。「意識」という言葉は書かれていないので、アルファヴィルには「意識」は存在しない。「愛」という言葉も書かれていないので存在しない。論理社会は言葉と言葉の定義によって成り立つ。そして言葉は与えられる物だ。自分で名付ける事はできない。
ラストでは女性が自分の中に生まれた感情に「愛」という名前を付ける。卵が先か鶏が先かみたいな話だけど、「愛」という名前を付ける事で「愛」の存在を認識でき、初めて「愛」が生まれる。
そういう意味で、ラストはまさに「愛」が生まれる瞬間だったんだ。

ここまで書いてみて、まあ、正直「愛」を連呼するのは照れくさいものがあった。この映画に限らないけど、やっぱり最後落ち着くところは「愛」にならざる得ないのか?「論理」の反対=「感情」≒「愛」?「愛」というのはたぶん映画の中で一番ポピュラーな感情だけど、人間の感情で一番重要なのが「愛」なんだろうか。そうだ、と言われれば反論できないけど、そうなのかなあ?


惑星とか銀河とか出てきたけど、実際は宇宙の銀河の事ではないのかな?外世界として北京とかフィレンツェとかニューヨークとか東京とか出てくる。どうも地球の中の話のように見えるんだな。仮に惑星とか銀河とかが、国や都市の事だとすると、そう言い換える事にどんな意味があるんだろう。全然分からない。

意味ありげな名前が色々出てくるけど、それは何かの象徴だったのかな。それとも全然意味はなかったのか。