「TAKESHIS’」 監督 北野武

全作品を見ているわけではないので、はっきりとは言えないが、この映画のように、直接幻想的な映画を北野武が撮ったのは初めてかもしれない。俺の中では北野武デイヴィッド・リンチと同じカテゴリーの監督なので、こういう方向へ進むのは望むところではある。だけど、この映画の場合は、節操のない自由度が映画を散漫にしている印象を受けた。


現実の中でそっくりさんが出てきたり、夢の話が出てきたり、時系列が前後したり、かなり混乱させられる映画だ。作る方は簡単だろう。ただごちゃごちゃにするだけだから。ジグソーパズルを揃えるのは難しくても、バラバラにするのは簡単なのと一緒だ。
こういう作りにすると、なんでもできてしまい、なんでもありだ。でも、だから逆に観客が見て面白いものを作るのは難しいんじゃないかという気がする。


厳密に言えば、映画というもの自体フィクションなので、夢の話にしなくても何でも可能だ。それでも、"現実らしさ"という枠があるからこそ、現実と嘘のぎりぎりのラインの葛藤に興奮が生じるんじゃないかと思う。
一般論として、スポーツでも芸術と呼ばれるものでも、制約やルールがあるからこそ面白さが生まれると思う。もちろん制約が面白さを殺す場合もある。けど、制約がなくなったら、確実に面白さはなくなる。制約の中でいかに表現するかが作品の質を決める。短歌は五七五七七に納めなくてはいけないというルールがあるからこそ、うまく納める工夫の難しさと見事さがあり、字余りの色気があるのだろうと思う。


この映画には、かろうじて映画という枠はあるけど、現実や論理の枠はない。そこに自分でルールを設定してそのルールとの攻防を繰り広げて、初めて他人が見て面白いものができるんじゃないかと思うんだけど、この映画では、その独自のルールが緩いように感じた。


監督北野武は、すでに名声も富も十分手に入れているはずだ。それなのに、所在なげにたたずむ姿が、なぜこんなにもはまるのだろう。美輪明宏にあの売れない役者役をやれと言ってもできないだろう。恵まれているように見えるが、現実の世界でもその場所に存在することの違和感を感じているんだろうか。


もう一つ、この映画を見て考えたのは、映画を理解するとはどういうことだろうという事だ。俺はこの映画を北野武のとても個人的な映画だと感じた。それは、たけしのこれまでの歩みをある程度知っているためだと思う。工学部を中退し、浅草のストリップ劇場で働き、コメディアンとして人気者になり、フライデー襲撃事件を起こし、北野武名義で映画を撮り、バイクで大事故を起こし、監督として国際的な名声を手に入れた今でもコメディアンとして仕事をしている。これらは俺が日本で育っているから知っていることだ。俺が外国育ちで、こういう知識を持たずに、北野武の映画のファンだったとしよう。その場合、この映画の見方はだいぶ違って見えたと思う。もし知識としてそれらを知っていたとしても、実際に"タケちゃんマン"を見ていたか見ていないかの違いは、感じ方の差に大きく影響するような気がする。


まあ、それは当たり前だし、それはそれでかまわないだろうとは思う。だけど、そういう風に考えると、いろいろ調べて外国の映画を理解しようとすることに、なんとなく無力感を感じてしまうのだ。どれだけ知識で補っても、アメリカ映画をアメリカ人のように見ることはできないし、イラン映画をイラン人のように見ることはできないし、50年前の映画を50年前の人のように見ることはできないし、芸人の映画を芸人のように見ることはできない。突き詰めていけば、どの映画でも作ったのは俺じゃないんだから、完全に理解することはできない。
繰り返しになるけど、それはそれでいいとは思うのだ。どうあがいても、自分がどう理解してどう感じたか、しかない。でも、そう割り切って、制作者の意図なんかどうでもいいんだと考えてしまうと、今度は映画の魅力が消えてしまう。たぶん、映画に限らず、あらゆる表現手段の存在意義さえ消えてしまうような気がする。
これは自分と他人のコミュニケーションの問題だ。どこで折り合いを付けるかは難しい。


takeshis'」はなぜ「takeshi's」じゃないんだ?と思ったら、takeshiの複数形だったんだな。