「誰がために」 監督 日向寺太郎

俺が本当に理解できたかどうかは別として、会話にしても風景描写にしても、説明的過ぎてあまり情感が感じられないシーンが多かった。意味が多すぎるのだ。しかし、映画はただの乾いた観念のパズルにならずに、どうにか踏み留まっている。それは、何のメタファーも帯びていない(ように見える)池脇千鶴の普通っぽさが、かろうじて映画を実感の世界に繋ぎ止めているように感じたからだろう。


まずは謎解きから入る。
まずは風だ。映画全編で、風車や風車や鳥や風になびく木々など、風を連想させるものが大量に出てくる。「ははーん、これは風が何か意味を持っているな」と心の中で得意がっていると、最後にそれは亜弥子の幼少期の思い出だったと明かされてされてしまい、少しがっかりした。謎のままにしておいてくれればいいのに。
とは言え、風が何を意味しているかはいまだに分からない。
理屈から言うと、亜弥子は幼少期に父と別れて家族団らんのイメージを持っていない。そういう家族を求める気持ちが、幼少期の風を求める気持ちに繋がっているのか?


亜矢子にまつわるイメージには、ニケ像もある。頭部がなく翼を持ったギリシャの彫刻だ。これについても、映画の中で説明されてしまっている。これは欠けているものの美だ。亜矢子の母親が、父親の写真の頭部を全て切り取ってしまったために、父親の顔の記憶もないまま育ってきた。それが、家族や結婚というものに対してのコンプレックスとなっている。ニケ像はそういう亜矢子自身のメタファーになっている。だから、亜矢子が殺された時にはニケ像が壊れる。


亜矢子にまつわるイメージには、さらにパレスチナの少女の写真もある。亜矢子はその写真に惹きつけられ、主人公民郎がその少女について説明する。その少女は親を殺され家族がいない。亜矢子と似た境遇の少女だ。浅野忠信演じる民郎がその写真を気に入って飾っていることは、民郎がマリではなく亜矢子を選ぶことにも繋がる。そして、ニケ像同様、亜矢子が殺される時には落ちて割れてしまう。


亜矢子を殺した少年は、鳥を飼っていて良く面倒を見ているようだ。亜矢子が撮った"風"の写真の中には鳥もあり、鳥は風を可視化するものの一つだ。その事と、雑誌記者の説明からすると、少年も亜矢子と似た境遇であり、どこか繋がっている。


民郎が車を運転していると、鳥がフロントガラスにぶつかり死んでしまう。その時にできたフロントガラスのひび割れは、パレスチナの少女の写真が落ちて割れた時のひび割れに繋がる。この突発的な事故により、民郎は亜矢子の事を思い出したのだろう。もしかしたら、私を忘れないでと言っているように感じたのかもしれない。


そして、少年に復讐しに行く。そして踏ん切りがつかずに逡巡していると、道路を新聞紙が舞う。またも風の可視化だ。民郎はそれを見て、決行する。


周りのみんなが、民郎に亜矢子のことは忘れなさいという。亜矢子の母親も言う。ところが民郎は亜矢子の事が忘れられない。
民郎はキャパになると言って世界中を飛び回っていたが、父親の死によってあっさりと夢を捨て、写真館を継ぐ。死者の意志を継がなければならないという使命感があるのかもしれない。
これは「誰がために」という題名に繋がる。この解釈で行くと、復讐は誰のためなのかってことが主題なのか?
復讐をしようとしている民郎をマリが見つけて、説明的な会話がされる。
「復讐しても亜矢子は帰ってこないし、相手の家族が同じ思いをする」
「民郎は亜矢子の気持ちはどうなるんだ」
民郎にとって復讐は亜矢子のためらしい。


亜矢子については過剰なくらいに説明されるが、肝心な民郎の心があまり汲み取れなかった。民郎はなぜ亜矢子やパレスチナの少女に惹かれたのか。復讐に行くのも自分の悔しさではなく、亜矢子のためであり、民郎自身の心は見えない。


パズル的な部分は、だいたい自分の中では解決したのだけど、一つ肝心なところがまだよく見えない。ラスト、少年を殺しかけるが途中で止め、逃げ出す。その後、ニケ像が半分水に沈んでいる映像が映る。あれはどういう意味だろう。


そして、マリを遠くから見つめるラストシーン。ラストシーンだけは、ぞくっと来た。俺が理解できなかっただけかもしれないが、ここだけは多義的に解釈できるように謎のままで残してくれたような気がする。


さあ、意味探しはもうお腹いっぱいだ。これらは何を表現しようとしているんだろう。「誰がために」という題名だ。たぶん復讐する民郎の心のような気がしてくる。だけど、その主題に、今までやってきたパズルが必要だったのか?特に亜矢子に関するパズルは、ほとんど民郎の心を解く鍵にはなっていないように見える。
たぶん、表現したいテーマはあったのだろう。でも、そのテーマに焦点が合っていないように見えた。謎について考えても、そこからテーマは浮かび上がってこない。逆に、制作者達の問題意識と違うところへ意識を向かせる役割を果たしてしまっているかもしれない。


民郎の心も掴めず、亜矢子の心もただのパズルで終わってしまいそうな中で、この映画を面白く見せていたのは、最初に書いたとおり、池脇千鶴演じる普通な女の子マリだ。マリの普通の情感が、観念の世界に唯一血と肉を与えていたように感じた。主人公も浅野忠信だからまだ魅力があったが、別の役者だったらかなり退屈に見えてしまったんじゃないだろうか。


舞台は東京の下町だ。たぶん実際にはああいう雰囲気が今でも残っているのだろうが、俺はそういう地域の下町情緒というやつを現実には知らないので、まるで昭和初期が舞台の映画を見ているようだ。