「ネバーランド」 監督 マーク・フォースター

ヨカッタ。久々に素直に感動した。
事実を元にしている、子供が出てくる、お涙頂戴。見る前はそんなイメージであんまり期待していなかった。どちらかというと、俺が苦手とするタイプの映画だ。そういう期待のなさが逆に良かったのかもしれない。


たぶん嘘の世界に紛らせた現実的なドラマに俺は弱い。まさにこの映画のように。この映画では、想像ではない"素"のシーンでも、どことなく作りもの臭さを感じさせる演出がされているように感じた。それが、合間合間の登場人物の心の微妙な動きとコントラストを作り、逆に心情をリアルなものに感じさせる。


見る前に予想したように、確かに子供達は見ててかわいいし面白い。子供達が大人になる瞬間は心を揺さぶられる。だけど、たぶんそれがメインだったら俺は途中で飽きていたと思う。俺の中では、この映画の重点はそこではなかった。そういう子供達に隠そうとする"大人の事情"に面白さがあった。
特に好きなのは、主人公と奥さんの会話のシーンだ。2人の会話の中には、揺らぎを感じる。内面では、愛しさやら不信感やら疲れやら虚栄心やら寂しさやらが渦巻いているが、そういう複雑さを押さえ込んで、静かな会話がなされる。
奥さん役のラダ・ミッチェルという女優さんの名前は覚えておこう。


思うに、この映画に限らず俺が感動するポイントというのは、ほんとにちょっとしたシーンなのだ。主人公と奥さんのシーンも、この映画の中では、メインのドラマではない。俺の場合、メインのドラマ、本道のストーリーで感動するという事はあまりない。主人公を悪く言う未亡人のお母さんとか、芝居を家で上演するとか、未亡人が死んでしまうとか、そういうのはなんか物語のレールに乗ってるなあと感じて、むしろ冷めてしまう。表現が難しいけど、単純に他の話と共通の構造だからというだけではなくて、伝えたいものが見えてこない感じがする。なんというか、レールに乗って自動的に展開が作られて、こちらに見えてくるのは、感動させようという制作者達の意図だけであって、表現したいものではないように感じる。
例えば、未亡人の死は、未亡人の死そのものを見せたいという意志ではなく、そういう展開で感動させたいという意図しか見えてこない。そう感じてしまうともうダメなんだな。
そういういろんな物語の共通項みたいな構造からはみ出した、その映画固有のもの、固有のシーンが俺が何かを感じるシーンだ。


そういう意味で、俺にはこの映画の本道のストーリーはあまり重要ではない。所々に挟まれたシーンに何かを感じるのだ。
それは、書家が書いた書を見て、言葉の内容ではなく文字そのものに何かを感じるのと同じようなものだ。この映画には、映画の個性といってもいい、瞬間的に映画から沸き上がってくるものを感じる事ができるシーンが数多くあった。


この映画は想像力を礼賛する。けど、想像力が現実を曲げる事ができるとは言わない。現実は現実であり、想像は想像に過ぎないことが強調される。それがこの映画の美点だと思う。いくら病気ではないふりをしても病気は病気で、死ぬ時は死ぬのだ。まともに生きていくなら、その現実は受け入れざる得ない。
ただ、人は現実だけで生きているわけではない事を、この映画は伝えているように感じる。


現実の世界で、想像が現実を変える事はない。そういう意味では、想像は現実に勝てない。
しかしまた、逆も言える。想像の世界では、想像が現実を変える事ができる。現実を超える瞬間を持つ事ができる。儚いものだと言って、偽物として、その貴重な瞬間を切って捨てる必要はない。道具が機能的なだけでは味気ないように、現実しか認識できない心は味気ない。
想像に遊ぶ事は、現実を忌避する事ではない。現実と想像は両立する。


ジョニー・デップの魅力はなんだろう。演技の善し悪しはよく分からないけど、いつも仮面をかぶってるような感じがする。汗臭さを感じさせないというか。すっとぼけた感じというか。他の役者に感じる必死さのようなものがなくて、軽さを感じる。こう書くとなんか悪い事みたいだけど、逆にそういうところが、この人の独特の魅力だ。


「ピーターパン」って未だに見た事ないし、ストーリーも知らない。よく引き合いに出されるので、知識として見ておきたいなとは思っていたんだけど、これを見て、普通に見たくなった。