「亀も空を飛ぶ」 監督 バフマン・ゴバディ

俺が映画を見て面白いと感じる瞬間には、登場人物の気持ちと自分の気持ちがカチッとシンクロしたとか、きれいな女を見たとかいろいろあるけど、一番面白いと感じるのは、自分が無意識のうちに持っている常識や固定観念を裏切るような映像を見た時だ。そういう意味では、「映画はこういうものだ」という俺の常識をはみ出すようなアメリカ映画というのはあまり見る事がない。逆に、この「亀も空を飛ぶ」のような映画は、内容がどうこうという以前に、「なじんでいる映画」っぽくないというだけで俺にとっては刺激的だ。


この映画のイランの生活が、どの程度リアリティのあるものなのかを判断する知識は俺にはないが、たぶんそれはあまり問題ない。どちらにしても、俺にとってはSFと同じように「そういう世界があるんだ」と認めるところから始めて、その世界のルールを想像しながら見るしかないのだ。そういう作業が俺にとっては面白くて魅力的だ。


しかし、そういう先天的な魅力とは別に、この映画はさらに固定観念を壊す力を持っていた。
まるで庭の掃除を頼むように子供に地雷除去をさせる大人達。掘り出した地雷を売って生活費にする子供達。戦車に住む子供。地雷や機関銃がある日常。
俺が面白いと感じるのは、こういう「日常」の違いだ。俺からすれば、命を賭けて地雷除去するなんてとんでもないが、彼らにとってはそれが日常だ。俺が抱いていた「日常」という言葉のイメージが吹っ飛ぶ。


今回はめずらしくプログラムを買ったんだけど、その中であの子供達を強靱とかたくましいとか何人か書いている。だけど、そういう考えはある意味平和な人たちの傲慢じゃないかという気がする。子供達は別に強靱だからあのような生活をしているわけではない。あれが日常なのだ。もし日本で生まれ育った人間が、あの場所に行ってあんな風に生きられれば強靱と呼べるかもしれない。けど子供達は生まれた時から、最初から、あれが日常なのだ。


例えば、火事を起こす原因を完全になくして、火事と無縁の生活を送れるようになった未来人がいたとする。その未来人が現代人が見て「火事なんて、かわいそうに」というのなら、現代人は「そうですね。未来はいいですね。」と言うしかないが、「火事の危険を顧みず火を扱うなんて、なんて強靱な精神!」と言われたら笑いたくならないか?絶対言いたくなると思う。「この時代じゃ、これが普通なんだよ!」


つまり、あの子達を「強靱」だの「たくましい」だのと表現するのは自分を基準にする傲慢さから来ているんじゃないのか?さらに言えば、そうやって特別視する事が、状況の理解を妨げてないか?なにか歪めて見る事に繋がらないか?


「かわいそう。とてもいい映画」というのも何かずるい気がする。結局自分がカタルシスを感じるためのエンターテインメントとして消化してしまっているのに、それに無自覚だ。
もちろん、それがエンターテインメントとして作られているなら全然おかしくない。でも、メッセージ性を持った映画で、そんな感想は、何かが抜け落ちてしまっている感じがする。「かわいそう」と「いい映画」をつなげる事が何かおかしい感じがするんだな。
たぶん、監督にしてみたら、この映画に出てきたような生活があると知ってもらうことは事は有意義で、望むところだろう。
でも、知るということと、娯楽として消費してしまう事の間に、何か溝がある気がしてならない。具体的にどういう事かはは自分でもはっきりと分からないけど。


ラストで男の子が予言する。「275日後に何かが起きる」
これが気になるんだけど、275日後とは何があった日だ?はてなによると、2003年4月9日がバグダッド制圧とある。たぶんラストシーンはこの数日後だろう。とりあえず制圧から275日後というと2004年1月9日だ。これ以降という事だと思うんだけど、この頃なんかあったんだろうか。フセイン拘束が2003年12月14日だけどこれ?この映画のワールドプレミアが2004年9月ということだから、275日後がまだ未来だったって事はないと思うんだけど、なんだろう。


俺の印象に残ったのは人物を遠くから撮った映像だ。カットによっては、画面の半分以上が真っ青な空になる。空や広大な大地などの自然が、この映画が現実である事や日常である事を感じさせる大きな役割を果たしている。
この映画は、この映画を見る人たちの日常とは違う日常生活がある事を伝える。こういう現実もある事を伝える。観客に対して声高に叫ぶ事はしない。けど、実は問うている。
イラクはこんな感じですけど、何か?」


監督、申し訳ないが、俺は違う世界を知るという娯楽として楽しんでしまったよ。