「偶然の旅行者」 監督 ローレンス・カスダン

全体的には、落ち着きと間がいい感じの恋愛映画と言えると思う。ジーナ・デイヴィスのキャラを除けば。でも、俺にとっては主人公の最後の選択が謎だ。テーマ的には何となく分かるんだけど、主人公がなんでそう考えるに至ったかが、よく分からない。


意味深なものがいくつか出てくるので、大体のテーマは分かる気がする。
なぜ最後にミュリエルの方を選んだのか。おそらく心が開ける女性だったのだろう。でも、その描写はどこにあったんだろう。


まず、意味深に思えるものを挙げていってみよう。


まず旅行だ。これは人生の例えらしい。それはラストシーンで直接言っている。主人公は旅行のアクシデントをいかに避けるか、いかに準備しておけば良いかについての本を書いている。
また、それはいかに旅行先で家にいるようにくつろげるかでもある。逆に言えば、旅行先の土地をいかに拒否して自分の中から押し出すかだ。
これは主人公の生き方そのものを表している。


それから、電話。これは喩えでは無いかもしれないけど、コミュニケーションの手段として、電話がよく登場する。
主人公の兄弟が出てくるが、全員、人とのコミュニケーションを嫌がる。兄弟の家では電話に出ない。
主人公がこの血を引いているのはよく分かる。行動こそ少し違うが、コミュニケーションによる、他人の予測していない行動を嫌っている点で同じだ。


それから、管理。主人公の妹は病的と言っていいほどの整理魔だ。
これに関してもやはり同じだ。混乱を避けようとしているのだ。
また、犬のしつけが重要な主人公達を結びつける鍵になるが、しつけも管理と言えるだろう。
ただ、ここまでの流れで言うと、主人公がきっちり犬をしつけしていそうなものだが、そこは逆で、ミュリエルに会うまではしつけをしていない。そこに何か意味が隠されてるのか?


こじつけかもしれないが、アレルギー。ミュリエルの息子は重度のアレルギー体質だ。いくつかあるアレルギーのうちの一つに、外の空気のアレルギーというのがある。現実にそういうアレルギーがあるのかどうか知らないが、まさに主人公の精神と一緒じゃないか?


まとめれば、予測不能な事を避ける心を持った家族だという事だ。
主人公の場合は、その著書が端的に表しているように、トラブルを避ける。自分の心を開かない。感情を閉じこめようとする。


そんな人間が最後に、心を開ける人間と出会った事に気づく、という話なんだろうと思う。たぶん。
たぶんというのは、心を開ける人と出会ったというのが、最後の奥さんとの会話からたぶんそうなんだろうと想像しただけで、どうしてそのように主人公が感じたのか、俺にはよく分からなかったからだ。
なぜ奥さんではなくてミュリエルを選んだんだろう。


最後の台詞から考えると、「相手にとって自分が誰か」と言う事がミュリエルを選んだ理由になるのだろう。
いや、違ったっけか?「相手といる時に、自分が誰か」だったか。
あの時の台詞から考えるに、元妻のサラは一人でやっていけるが、ミュリエルが自分を必要としている?
相手が自分を必要としているから、自分が誰かでいることを感じられる?それでそちらを選んだ?
なんか違うよな。恩着せがましいし。
心を開く事が「自分が何者かである事」なのか。逆かも。
俺の解釈だと、「大事なのはどれだけ愛しているかじゃなくて、どれだけ心を開けるか、どれだけお互いに必要としているかだ」と言う事か。
よく分からないのは、主人公が必要としている人はなぜ奥さんではなく、ミュリエルだったのかだ。
ミュリエルが主人公を必要としているのは分かる。いや、それも分からないな。生活面では父親がいた方がいいだろうというのは分かる。金銭的にも息子のためにも。でも、もし必要としてる理由があるとしたら、それだけじゃ映画のテーマにならないよな。なにかミュリエル本人が、主人公を必要としている理由がありそうな気がするけど……
なんだろう。
だいたいミュリエルは初っぱな、初対面の時から押してたよな。なんでだろう。


奥さんとは確かになんどもけんかしている。でも、ミュリエルともけんかしている。その違いはなんだろう。
奥さんは「あなたの悪いところはね、……」と指摘する。主人公の生まれ持った性質を意志で変えるべきだと考えているのかもしれない。
それに対し、ミュリエルはまずその性質を受け入れた?主人公が心を開くようにミュリエルの方が努力した?
うーん、まだなんか違う気がする。


主人公はミュリエルといる事で、その性質を変える事ができたと言う事なのか?それとも、その性質のままでも一緒にいる事ができるという事なのか?
そう、この決断によって、主人公はこれからどうなっていくんだ?
妹は、整理魔という性質を生かす仕事についた。それと結末が並べようとしているなら、ミュリエルといると今の性質を変えずにいられるという事なのかな。


一人でもやっていけると言われた奥さんは、パートナーが必要ないと言われているようですこし可哀想な気もした。


それから、ラストでなぜトランクと息子の写真を捨てるのか。
特に息子の写真だ。実の息子の事を忘れてしまうつもりなのか?忘れてしまっていいのか?
それは息子の死を克服したという意味なのか?
だとしたら、あんまりいい表現じゃないような気がするな。息子の写真は持ったままミュリエルの所に行くべきだったんじゃないか?
それとも、もっと違う意味があったのか?


結局、この映画にメッセージがあるとしたら、その点はよく分からなかった。というか、理屈的にはこうだろうというのは見えてる気がするんだけど、人物の気持ちの流れを理解できなかった。
この映画を見て「ああ、そうそう」と実感できるほど、俺が大人じゃないってことかな。
ああ、原作読みたいな。


なぜそうなのか、を考えなければ、落ち着きと間が、味わい深くてなかなか良かった。
最後の、朝方の妻との静かな会話が好きだ。
「予感はしていた」という、相手の気持ちと事実を冷静に見つめる態度が大人だ。自分の寂しさだけで取り乱したりしない。


主人公の家族のキャラも面白かった。


ただ、ジーナ・デイヴィスのキャラだけはやり過ぎじゃないの?という気がした。もう少し普通でも良かったんじゃないかという気はする。
ジーナ・デイヴィスの奇抜さは当時から見ても奇抜だったんだろうか。
80年代と2005年とではすこし感じ方は違うかもしれない。作られた当時だと、もしかしたら普通の奇抜だったのかな。あれが。


原題は、the accidental touristという。
偶然の旅行者とは?偶然を旅する人?偶然旅行をする事になった人?
予期しないという意味では「突然の」の方があっているような気がするな。
突然旅行をする事になった人の事かな?